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カテゴリ:知の構造、地の構造
5月20日分の日記の続きだよ。
まず「鏡像段階」っていうことの説明をするのね。 以下↓引用。(『寝ながら学べる構造主義』より) ------------------------------------------- さて、この「原始的不調和」に苦しむ幼児が、ある日、鏡を見ているうちに、そこに映り込んでいる像が「私」であることを直感するという転機が訪れます。そのとき、それまで、不統一でばらばらな単なる感覚のざわめきとしてしか存在しなかった子どもが、統一的な視覚像として、一挙に「私」を把持することになります。 「おお、これが<私>なのか」、と子どもは深い安堵と喜悦の感情を経験します。視覚的なイメージとしての「私」に子どもがはじめて遭遇する経験、それが鏡像段階です。(ところで、もし鏡を持たない社会集団があったら、そこにおいて鏡像段階はどうなるのでしょう?どなたかご存知の方がいたら教えてください。) ------------------------------------------- 引用↑以上。 鏡を持たない社会集団は「私」というものを持たないがために、共同体的社会集団となるのではないかと思う。 (「私」というものが未分化だから未文化社会…) …えーと、戻る。 以下↓引用。 ------------------------------------------- もちろん人間が成熟するためには、この段階を通過することが不可欠なのですが、よいことばかりではありません。「一挙に<私>を視覚的に把持した」という気ぜわしい統一像の獲得は、同時に取り返しのつかない裂け目を「私」の内部に呼び込んでもしまうからです。 たしかに、幼児は鏡像という自分の外にある視覚像にわれとわが身を「投げ入れる」という仕方で「私」の統一像を手に入れるわけですが、鏡に映ったイメージは、何といっても、「私そのもの」ではありません。一メートル先の鏡の中から私を見返している「鏡像の私」は、一メートル先の床の上にあってこちらを向いている「ぬいぐるみ」と、「私そのものではない」という点で変わりがないからです。 ------------------------------------------- 引用↑以上。 「私」そのものではないものを見て「私」を把持するという裂け目に神概念っていうのが発生するのではないかというように思っているのね。 鏡像段階を経ない社会では、自然への畏れと自然との共存というところから出ない神概念なんだと思う。 (↑ここら辺は『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズを読んだことによる発想かな?) 八百万の神(万物に神が宿る)という考え方は、「私」が未分化だからこそ起こるように思う。 で、すっ飛ぶけれど三種の神器の中に鏡があるのって、なんか象徴的なような気がする。 古代において、「私」というものを、より確実に把握したのが権力者になったということも考えられるような気がする。 (↑ここら辺は『盗まれた神話』古田武彦からの発想。神概念も進化しているということ) うーん、「私」が未分化でも神概念はあるというのは、ようちゃん2号の言いたいこととは相容れない感じではあるよね…。 でも、たぶん一神教的神概念は、「私」を獲得したところから始まると思うんだよ。 (結論が先にあって、後追いで論理づけているだけの作業かもしれん) 以下↓引用。 ------------------------------------------- 人間は「私でないもの」を「私」と「見立てる」ことによって「私」を形成したという「付け」を抱え込むことから人生を始めることになります。「私の起源」は「私ならざるもの」によって担保されており、「私」の原点は「私の内部」にはないのです。これは考えれば危うい事態です。なにしろ、自分の外部にあるものを「自分自身」と思い込み、それに取り付くことでかろうじて自己同一性を立ち上げたということですから。言い換えれば、「鏡像段階を通過する」という仕方で、人間は「私」の誕生と同時にある種の狂気を病むことになります。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 狂気を病んでいるという自覚から、強い神概念が生まれるかな? (これが一神教の母体となる感じ) だから岸田秀の「人間は本能の壊れた動物である」っていう持論はインパクトはあるけれど、あまりオリジナルな発想ではないかもしれない。 …もうちょっと書いていかないとわからない感じだな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年06月09日 08時02分45秒
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