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カテゴリ:知の構造、地の構造
5月30日の日記の続きではあるけれど、まとまらないので、雑考ということで置いておくのね。
同じく内田樹が書いているのだけれど別の本から「鏡像段階」の記述を拾ってくる。 以下↓引用。 (『現代思想のパフォーマンス』ジャック・ラカンより) ------------------------------------------- しかし、この気ぜわしい統一像の騙取は取り返しのつかない裂け目を「私」の内部に呼び込んでしまう。というのは、幼児は「始原的な型」のごときもののうちにその身を投じるという仕方で「私」の統一像を手に入れるわけだが、鏡に映ったイメージは、どう言いつくろおうとも「私そのもの」ではないからである。つまり、人間は「私ならざるもの」を「私」と誤認することによって「私」を形成するのである。「私」の起源は「私ならざるもの」によって担保されており、「私」の原点は「私の内部」にはない。これが人間的事況である。 ------------------------------------------- 以上↑引用。(太字は原文では傍点) 「私が私を得たのは、私を映す鏡を私が見て私と誤認したことから始まる」ということだね。 以下↓引用。 ------------------------------------------- 「私」の外部を「私」の内部にねじりこむようにして果たされたこの自己同一性の確立は、別の言い方をすれば「状況による主体の略取」(captation du sujet par la situation)という「狂気の最も一般的な定式」を人間の起源のうちに呼びこんでしまう。人間はそのようにしてほとんど誕生と同時に狂気を病むことになる。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 えーと、「人間は本能の壊れた動物である」という岸田秀の理論は、書き方としてまだまだ穏やかかもしれない。 本能を無理やり引き剥がすということが、「鏡像段階」では起きているということかもしれない。 以下↓引用。(『寝ながら学べる構造主義』より) ------------------------------------------- 精神分析的に考えると、「私」という(「主体」の外部にある)ものを主体そのものと構造的に錯認して生き思考している以上、人間は、みな程度の差はあれ狂っているということになります。極論のように聞こえますが、これはなかなか思い切りのよい立場であって、そういうふうに考えてしまうと、それはそれでいろいろとすっきりすることもあります。 この前提に立つと、「自我を知覚―意識システムの中心に位置するものとして構想する」すべての哲学、つまり「おのれが正気であることを自明の前提とする」すべての知(サルトルの実存主義はまさにそのようなものとしてレヴィ=ストロースによって退けられたわけですが)にはとりあえず疑問符が点じられます。 みずからを透明で安定的な知として想定するものは、そのように自己措定している「知そのもの」が、実は神経症的な病因から誕生した「症候形成」かも知れないという「私の前史」についての反省的視線を欠いているからです。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 「みずからを透明で安定的な知として想定する人」って、政治家に多いんじゃないかな? だけど、ようちゃん2号的には、その世界の人に、知性が感じられないことが多すぎる。 ではなぜ、その世界に「みずからを透明で安定的な知として想定する人」が多いのかといえば、たぶん、「みずからを透明で安定的な知として想定している人を政治家にしたほうがよい」と勘違いしている人が多いからなんだと思う。 うーん、ちょっとすっ飛び始めたかも…? 以下↓引用。(『現代思想のパフォーマンス』ジャック・ラカンより) ------------------------------------------- 鏡像段階を経由した人間はおのれの自己同一性を「視覚像的=想像的」(imaginaire)な仕方で先取りする。この最初の「ボタンのかけちがい」が以後の人間のあり方を宿命的に規定する。鏡像(それは「私の外部にあるもの」だ)を「私」と同定するものは当然ながら同じような仕方で視覚的に出現するものをその後もたやすく「私」と誤認することになるからだ。 たとえば、幼児は仲間が転ぶと自分が転んだつもりになって泣き出し、仲間を殴っておいて、自分が殴られたと訴え出る。べつに嘘をついているわけではない。「私」の鏡像と自分の相貌と似た他の子どもを識別できず、他者に想像的に同一化してしまうのである。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 子どもは嘘をついているのではないのね。(自分と他人の境をうまく把握できないだけ) ところが、こういうところを、親って見ていないかもしれない。 ちゃんと段階を踏ませないで、「嘘はダメ」とか「友だちは大切にしなくちゃいけない」と「やり方」を押し付けてしまうと、未分化なまま子どもが親になってしまう危険をはらんでいる感じがする。 というか、そういう子どもが増えている感じがする。 (これについてはトラックバック、って、どんどんすっ飛んでってるー!) 以下↓引用。 ------------------------------------------- 同じことはラカンが「原初的嫉妬」ということばで呼ぶ現象にも見られる。幼児は他のこの欲しがるものを欲しがる。子ども時代にだれでも経験があるだろうが、一人の子がある玩具を欲しがると。他の子たちにその欲望が感染する。同じひとつの玩具を奪い合って、壮絶な競争がはじまる。最初の子があきらめて、別のものに関心を移すと、今度はその欲望が全員に感染する……手に入れてみると、そんなものを少しも欲望していなかったことに気づくようなものに、子どもたちは雪崩を打って殺到する。この欲望に「私」は抵抗することができない。なぜなら「私」の欲望は「私」の内部にはなく、「私」が想像的に同一化してしまった他者の欲望を媒介として外部から到来するからである。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 これ、大人買いっていうのの根底にあるものかもしれない。 うーむ、コメントつけるの面倒になってきた…。 以下↓引用。 ------------------------------------------- フロイトは『否定』を論じた短い論文でつぎのような患者の例を挙げている。 患者が「わたしは、夢である人に会いました。だれだとお思いになりますか。でも、母でなかったことははっきりしています」と言った場合、その意味は「私が夢であったのは、ほかならぬ母なのです」と言うことである。 「否定」は、あるものを打ち消すことを通じて、そのあるものに迂回的に注意を差し向けさせる。抑圧されている表象や思考内容は、それが否定されると言う条件のもとではじめて意識の世界に入りこんでくるのである。 (中略) 大方の人が信じているように、ことばは「そこにないもの」を「それがある」と言って幻影的に現前させる魔術ではない。そうではなくて、ことばは「それは消え失せた」と言うことによって、なにかの痕跡を存在させる魔術なのだ。 ------------------------------------------- 以上↑引用。 ずいぶん前に日記に書いた「リンゴのない机の絵は描けない」っていうのと、なにかつながりがあるかな? リンゴのない机の絵は描けないけれど、「リンゴのない机の絵」ってのがことばでは表現できてしまうっていうことの不思議さってのはあるな。 …まとまらないけれど、これはこれ、ちょっと関連があると思う日記をトラックバックしておくの。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年06月09日 16時13分43秒
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