|
全て
| カテゴリ未分類
| おいたなおいたち
| ブッダガヤだがや~千里の道もいっポカラ
| 本人はいたってまじめな本の話(本がだよ)
| 身の下みのもんたものがたり(やけくそ)
| 今日あったこと。
| 他事暴論(たびたびタジタジ、)
| 心の旅(ころころ変わるココロ)
| 備忘録?貧乏暇無し
| レシピっていうんか?シルブプレ~?
| 知の構造、地の構造
| 瑞々しい…?言葉の端々…
| 日本人ってなにかな?
| 女性、男性。
| 空いている日の日記を埋めました。
| 文章を書き続けている理由。
| 私が間違っておりました。
| 習作。読んでもらわなくてもいい文章。
| とうだいもとくらし一人暮らし
| 小さい話で盛り上がろう。
カテゴリ:他事暴論(たびたびタジタジ、)
「国益」を語ろうとすると、前提として「国家とはなにか?」という問いが立ちはだかるような気がするのね。
ところが、そういうことを考えないで、国益って言葉をお構いなしに簡単に使っている人がいるように思う。 なんでそうなるのかな?っていうことのひとつの回答が、最近読んだブログに書かれていたような気がする。 簡単に言うと、存在を問わないで価値判断に逃げるということをやっているということになると思う。 これ、いろいろなところで起きている感じ…。 「いじめ」ということで考えてみると、「どうしていじめはあるか?」ということを問うことなしに、「いじめは悪いこと」って反射的に反応して、それ以上何も考えないというようなことが、「価値判断に逃げる」ということになると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年07月08日 19時33分30秒
コメント(0) | コメントを書く
[他事暴論(たびたびタジタジ、)] カテゴリの最新記事
|
|