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関本洋司

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2004年11月22日
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テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:コラム
 宮崎駿監督の『ハウルの動く城』は、『紅の豚』にもましてファシズムと戦争(+環境破壊)への批判に満ち満ちていました。映画それ自体が戦争機械(byドゥルーズ)であることによって、プルードンの『戦争と平和』と同じような誤解を生むでしょうが、シュールレアリズムと商業主義の重要な合体が(着地点が見失われているとはいえ*)行なわれていると思います。
 この作品は、イラクの戦争を強度において凌駕している作品として、『座頭市』とならんで映画史的には並べられると思います。
 さて以下本題です。
 前世紀において、ファシズムについてもっとも鋭い考察をしたのはパゾリーニだと思います。
 次に、イタリアの映画監督パゾリーニ(1922-1975)がファシズムについて語っている言葉を御紹介します。

 ~今日、考古学的な反ファシズムの形が存在していて、これは真の反ファシストの免許を手に入れるのに都合のいい口実となっている。すなわち、もはや存在しない、そしてもう二度と存
在することのない古典的ファシズムを対象目標とする、安易な反ファシズムのことだ。
(中略)
 最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、(1)当然ながら、君にはこういった機会ほ訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。(2)若いファシストと一度も出会わないことを願うのは冒漬的だ。なぜなら、反対に我々ほかれらを見つけだし、出会うためにあらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された(悪)の代弁者ではない。"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になったとき----かれらに民族主義者としてファシストの格印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこういった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったものにするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。
(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)

 ただし、パゾリーニはファシズムについて、別の新たな定義をしています。つまり「均質化を成し遂げたという点で、消費社会こそ真のファシズムだ」と主張するのです。


 ~真のファシズムは、お人好しの社会学者が「消費社会」と名づけたものである、とわたしは心からそう考えている。無害で端的に内容を表すように見える定義だ。しかし実際はそうではない。現実をよく観察すれば、とくに物、風景、都市計画、そしてなによりひとびとの周辺を読むことができれば、この冷酷非情な消費社会のもたらしたものが、独裁体制、つまりまさにファシズムそのものがもたらしたものであることがわかる。
(中略)
消費社会というこの新しいファシズムは、逆に、若者を根底から変貌させた。かれらの心の奥に触れ、いままでとは別の感覚、思考方法、生き方、文化モデルを与えた。もはやムッソリーニの時代のように、芝居がかったうわべだけの軍隊的統制が問題なのではない。若者の魂を奪い、変貌させた現実の統制が問題なのだ。これの意味するところは、結局のところ、この「消費文明」は独裁的な文明であるということだ。要するにファシズムということばが権力の横暴を意味するなら、「消費社会」はファシズムを実現したのである。~
(パゾリーニ「海賊評論(二)現代のファシズム」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)

 パゾリーニのこの指摘は1974年(前者は3月後者は7月発表)にしては先駆的な認識だと思います(これはドゥルーズの規律社会から管理社会への移行の指摘とも響きあう認識です)。日本では石油ショック以降も、ヴィジョンがないままに大量生産、大量消費、大量廃棄を繰り返してきました。三島由紀夫などはこれに近い認識を提示しましたが、多分に美学的なものに留まったと思います。映画監督の山田洋次が地方色豊かなロケ地を選ぶのに苦労し出したのがこの時期だと言います。

 最後に参考までに、『ロゴパグ』でも引用された彼の詩の一節を紹介します。

わたしは過去の力である。
わたしの愛は伝統にのみ由来する。
廃墟から、教会から、
祭壇の壁画から、
アペニンと前アルプスの忘れられた村から、
わたしは到来する、兄たちが生きたところから。
                        
わたしは狂人のようにトゥスコラナを彷獲(さまよ)い、
野良犬のようにアッピア街道を廻る。
そしてわたしは成長した胎児として、
いかなる現代人よりも現代的に
兄たち、もはや存在しない兄たちを探しまわる。

*注:
その映画内にあらわれる社会学的な問題に対する解決策のヒントとして、ルーカスはくじ引きを、宮崎駿は地域通貨をそれぞれ研究する必要があるように思う。

追記:
映画理論に関して言えば、「モンタージュは、死が生前の行為を時間の埒外に置くためにする選択に似ている」と書いたパゾリーニは、その映画論に記号論を援用しながらもその記号的映画論そのものを自己目的化しなかったことが特筆されます。





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最終更新日  2004年11月22日 15時57分04秒
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