カテゴリ:詩・本
「ティファニーで朝食を」が収められた 短編集を読みました 私が彼に興味を持ったキッカケは 映画「カポーティ」でした 私が素晴らしいと思う俳優の1人である フィリップシーモアホフマンが カポーティを演じるということで 興味があって観ました。 映画はアカデミーに5部門ノミネートされて 作品としても評価が高いのですが 映画そのものというよりも 私はフィリップシーモアの 演技の素晴らしさに本当に感嘆しました 彼は本当に素晴らしい役者です!! カポーティそのものでした!! 同時にカポーティに対しての興味も とても湧いてきたので 彼の作品を何か読みたいなぁ…と思って 「ティファニー」を買いました。 あまりにも有名なオードリーヘップバーンの ホリーゴライトリーは まだ観てないので 早く観たいですね この本の訳者である村上春樹氏によると (新訳版は春樹さんが手がけていらっしゃるのです) 原作と映画はまったく違うもののようですね。 別モノとして楽しみたい次第です ところでところで 「ティファニー」も面白いのですが 本に収められている それ以外の短編たちに 私はすっかり魅了されてしまいました 春樹さんの独特の訳し方もあるのでしょうが カポーティ独特の世界観 あまり日常的でない設定を さもよくあるような感じで 淡々と描いているのですが… そこに人間の持っている 強さだったり弱さだったり 悲しさだったり宿命だったりが 絶妙に描写されているので 物語にいつのまにやら 引き込まれて行ってる自分がいて それがすごく心地良いんですね すごく奇想天外なことがあるわけでもないし (もうすでに奇想天外な設定なので 段々そのように感じなくなってくる) 小さな出来事を 1つ1つ丁寧に 積み上げて行って それらが合わさった時の それらの紡ぎだす なんとまぁサプライズさといったら 素晴らしい!の一言です あと春樹氏が言及していて なるほどなぁと思ったのが カポーティの持つイノセンスについてです。 いつまでも妖精のような子供でありながら、反面 「戦略的自然児」でもある。 「ティファニー」のホリーゴライトリーは まさに彼自身でもある、と春樹さんは おっしゃっています。 私はカポーティほど戦略的でもないし 頭ではそれをすれば得だと 分かっていても 実行できるタイプではないのだけれど (つまりは狡猾にはなりきれないということだす) とても似たものを感じて 共感をおぼえました。 カポーティのストーリーは どれも根本的な共通点があって いつまでも子供の頃のイノセンスさを 失いたくないという登場人物が 必ず出てきます。 それは彼自身の気持ちなのでしょう。 でも世間では そんなことは認められないわけで イノセンスな人間であっても 大人になるにつれて 多かれ少なかれ それは失われていってしまう。 イノセンスであればあるほど 彼らの居場所は 檻のようなものに変わり果ててしまい そこに残されるのは婉曲な自傷行為でしかない。 そう春樹さんは説きます。 あと注目すべき点は 「ティファニー」をターニングポイントとして 彼の文体スタイルが変わったということ。 それまでは早熟の天才であるがゆえに すらすらと彼の思うがままに 優れた作品を書いていたのだけど 「ティファニー」から 違うものの見方をし 違う文体をもちいるようになったそうです。 より簡素に統御されたものになり その文体は以前のものほど 刺激的でもオリジナルでもなくなったと言っていいだろう… と彼はインタビューで言ってます。 前のものよりは書くのに骨が折れ まだ自分の行きたいところには行ってない。 だが自作では(「冷血」) 出来るだけそこに接近することになる。 少なくとも 戦略的にはということだが… この部分を読んだ時に すごくすごく共感しました。 私事で恐縮ですが… 昔、私はよく曲を作っていました。 スランプの時ももちろんありましたが けっこう頻繁に積極的に 熱心にやっていました。 でも最近は 自分を納得させる曲は なかなか出てこなくなりました。 それは「大人になった」ということなんでしょう。 つまりはイノセンスから 少し遠ざかってしまったというのかしら。 引き出しがドンドン増えたのはいいのですが メロディが次から次に出てくるので それをチョイス出来ないのです。 昔より自分の満足のハードルは 高くなって行く一方です。 だからこそよりシンプルなものや 古いものに惹かれます。 最近はマライア、マドンナの新曲とか オールディーズにはまっています。 邦楽で言えば 安全地帯の「ワインレッドの心」は やっぱり素晴らしいし… 自分の曲もちょこちょこ作ってはいますが いかにリクリエイトするかということで どう自分なりにカヴァーするかってことに 以前よりも興味がわいています。 昔からライブでカヴァーとかやっていたけど 今は昔のスタンス 「とある名曲をそれなりにカヴァーしてる感じ」とは まったく違うスタンスですね。 誤解しないでいただきたいのですが これは私の中での 内なる精神的なスタンスの話です。 私のカヴァーに対する歌い方のアプローチは 傍から聞いていたら 昔も今も そんなに大差はないと思いますので… 要は カヴァーというよりも 新しく作る!というかね。 私のフィルターにかけて 別のモノに仕上げる!っていう そこにエキサイティングを感じますね。 この考えも昔から同じなんだけど 精神的なスタンスが 変わったってことを ここでは言いたいのです。 歌い方のスタイルについても まさにカポーティの心境そのものです。 自分のフォームを 新しくする作業 (つまりボイトレをして) いろんなことを学びました。 トレーニングするってことは コントロール下に置かれる ということです。 それは苦しくもあり 同時にエキサイティングでもあります。 私が最終的に辿り着いた考えは 先生は色んなことをいうけど もっともおっしゃりたいことは 「力をいかに抜けるか」 ってことだと思います。 「力み」をとるのは 非常に大変な作業です。 力んでるように聞こえる歌は 力を抜いた上で力むという難易度の高い奥深さです。 だけど、力を抜ければ抜けるほど 声もラクにでるはずだし そうして よりパワフルにも歌えるはずなのです。 自分のフォームやスタイルを変えること 昔から培ってきた 価値観ややり方などが 変化していく様をみるのは 時にとてもとまどいますが それは成長しているということなのでしょうね。 それが良いのか悪いのかは 死ぬ間際になってみないと分かりませんね とにかくカポーティみたいな偉大な人でも いろいろと悩んでたんだなぁ… 華やかそうに見えて 心の中では空虚だったのかもしれない… 天才や偉大な人ほど 悩み多きという感じなんだろうなぁ ということを 改めて感じることが出来たので 久々に嬉しかったのです。 心に栄養をいただいた そんなような感じです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.09.15 02:00:43
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