|
カテゴリ:小説・海外
コロンビアの作家のG・ガルシア=マルケス。
彼のノーベル文学賞受賞作の『百年の孤独』を読みましたので、その感想です。
あらすじはamazonからのコピペ。 蜃気楼の村マコンド。 その草創、隆盛、衰退、ついには廃墟と化すまでのめくるめく百年を通じて、村の開拓者一族ブエンディア家の、一人からまた一人へと受け継がれる運命にあった底なしの孤独は、絶望と野望、苦悶と悦楽、現実と幻想、死と生、すなわち人間であることの葛藤をことごとく呑み尽しながら…。 20世紀が生んだ、物語の豊潤な奇蹟。 何代にも渡る姻戚関係の結果“ぶたの尻尾”の子が恐れる新妻のウルスラ。 それから派生したゴタゴタから、ホセ・アルカディオ=ブエンティアは故郷を捨て、新たな土地・マコンドの開拓者となる。 マコンドと言う村の始まりから、栄華、そして衰退して廃墟となるまで、そして村に沿うようにして滅ぶブエンディア一族七代の物語です。 登場する男は、始祖であるホセ・アルカディオと次男のアウレリャノの名を受け継ぐんです。 なのでとっても分かりづらいんですが、話としては、100年の年月をかけて、同じことを繰り返し、それが卑小化して行ってるので、名前も作者の意図なのだと思います。 非現実的な挿話が多く、ちょっと気味の悪いファンタジーと言う感じもしました。 名前を受け継いでいるにも係わらず、男たちが自分の中に閉じこもってしまうのに比べ、実際に一族と、その象徴としての“家”を守ろうとしているのは女達。 特に一代目のウルスラが凄くて、魅力的です。 第四世代のアウレリャノ・セグンドの妻・フェルナンダも強固に家(二重の意味で)を守ろうとしているようで、これが実は守っているのは自分の実家の“家”だったりする。 フェルナンダが一族の滅びの元を作っているようではあるけれど、実際はブエンティアの者が素質と持っているものが、結局は滅びへの道を歩いていかしたように思えるので、私にはフェルナンダは緩やかなきっかけに過ぎない気がする。 第二世代のホセ・アルカディオとアウレリャノ、兄弟2人共の子を産む娼婦のピネル=テルネラが面白い。 トランプで未来を占い、愛情深くはあるが、近親婚すら進めてしまう奔放さは、神話の中の女神のようです。 一族は近親婚をすれすれで防いでいながら、第七世代に、姉弟かと恐れつつ、実際は叔母と甥の関係の父母から生まれたアウレリャノ・バビロニアが“ブタの尻尾”として生まれ、すぐに死に、滅んでしまう。 マコンドの村もまた廃墟となる。 人間の七代に渡る百年も、一瞬の夢かと思わせる最後です。 ところであらすじにある“底なしの孤独”なのですが、私には「うーん?」と言う感じでした。 “底なしの孤独”と言う程の描写の深さは感じなかったんですよね。 一族は言わば滅びを運命づけられていたようなものですが、一族各個人の孤独は、それがもたらしたものとはちょっと思えない。 敢えて言えば最後の子の父と母、アウレリャノ(バビロニア)とアマランタ=ウルスラの2人は、一族の趨勢を自覚し、その孤独を分かち合っていた2人だとは思います。 “ブタの尻尾”で生まれたアウレリャノ・バビロニアが「この百年、愛によって授かった者はこれが始めてなので」と言う描写があって、最初は他の夫婦たちは?と思いました。 しかし一族の孤独を受け止めた2人だけが、本当に愛しあっていた・・・ってことかなぁと後で思いました。 孤独は、むしろ、物語を読んだあとの自分の気持ちの方に訪れる気がしました。 人と言う者が一瞬の夢のような存在、何も残すことができない存在かと思えば、虚しさや、孤独感にもおそわれるってものです。 何だか思いついたことをつらつら書いてるだけで、ちっともまとまりのない感想になってしまいました。 面白い小説なのですよ。 私は小難しいことは考えずに、物語の面白さを楽しめば良いんじゃないかなって気がしました。 そしてあとになって、あれこれ、あぁ、こう言う事なのか?と思いついたりする。 そんな小説だと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年07月11日 21時29分02秒
コメント(0) | コメントを書く
[小説・海外] カテゴリの最新記事
|