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カテゴリ:小説・海外
アルゼンチンの巨匠と言われるマルコス・アギニスですが、正直『天啓を受けた者ども』が今一だったので、これを読んでみました。
あらすじはamazonからのコピペ。 16~17世紀、南米大陸におけるあまりにも苛烈なキリスト教会の異端審問と、命を賭してそれに抗したあるユダヤ教徒の生涯を、壮大無比のスケールで描き出す。アルゼンチン現代文学の巨匠アギニスの大長編、本邦初訳! 垢にまみれ骨と皮だけになった身体。枷に締めつけられ潰瘍だらけになった両手足首。しかし、フランシスコの心は瓦礫の下で真っ赤に燃える燠そのものだ。そんな醜い男の姿を異端審問官たちはいら立ちの表情で見つめている。まったくもって我慢ならん厄介者め。 秘密の監獄へ彼を葬り去ってから十二年。あらゆる権利を剥奪し、繰り返し尋問にかけた。神学者たちと論争させ、屈辱を与え、脅迫もした。だが、フランシスコ・マルドナド・ダ・シルバはけっして降参しなかった。肉体的苦痛に対しても、精神的圧力に対しても。 (……)フランシスコの内面には、心の奥底から沸き起こってくる反逆の精神、けっして消すことのできない燠がめらめらと燃え上がっていたのだ。彼は自分同様、密かに信仰を保ちながらこの世をさまよっている人々がほかにもいることを知っていた。しかし、それは何と困難で葛藤に満ちた卑劣な人生なのだろう。ついに彼は打算的な考えをきっぱりと捨て、仮面を脱ぎ、堂々とおのれの信念を守りとおす道を選んだ。それまでの彼は、洗礼を受けて、外見上はキリスト教徒を装って生活する改宗ユダヤ人だった。 人はそれを、俗に“マラーノ(豚)”と呼んだ。 (本書「プロローグ」より) お高いので図書館で借りて読んで、今は手元にないので、名前などがきちんと書けなくてすいません。 16~17世紀の南米大陸における異端審問の過酷さと、その中にあって、自らのアイデンティティを賭けて信心を貫き通したフランシスコ・マルドナド・ダ・シルバ(実在の人物)の物語です。 フランシスコが子供の時から描いていて大変なボリュームですが、面白く読みました。 フランシスコの父は医者で隠れユダヤ信者なのですね。 それが異端審問につかまってしまって、一家は逆境に陥る。 フランシスコはキリスト教徒となって育ち、医者になります。 しかし聖書に書かれた矛盾点に気付き、また父との再会などにより、ユダヤ教の教えに傾いていく。 ユダヤ教徒であることを隠して結婚し、医者として成功したフランシスは、しかし自らのアイデンティティの在り処に悩む。 そして信念を守る決意をする。 子供時代に異端審問を逃れる為に住み慣れた土地を離れる描写があるんですが、その辺りの描写が好きです。 本国から統治を任されている者、カソリックの各会派、枢機卿と異端審問員、それぞれが力関係を争ってる様子も描かれています。 フランシスはユダヤ信者としては英雄なのでしょうね。 でも人としてはどうなのだろうと言う気持ちも起こる。 第一に奴隷やインディオに対する考え方が、16~17世紀当時の南米の人々のままであり、彼らもまた同じ人間なのだと言う次元での考え方を持つ風ではない。 そしてユダヤ信者としての自分を表に出す場面なんですが、今はキリスト教信者になっている姉に一方的に話すんですね。 姉もまたユダヤ人であって、純粋な血の後継者であるから、ユダヤ教信者であるのが当然であると言う思いがある。 異端審問でキリスト教を信じる者がいるように、私はユダヤ教を信じると言いながら、宗教の自由と言う観点はない。 もう1つ、これが一番大きいんですが。 自分の家族で経験していながら、キリスト教徒の女性と結婚して、自分がユダヤ教徒であることをカミングアウトしたら、自分の家族がどうなるかは十分承知のはずなのに、それに対しての迷い、逡巡の描写がないんですよね。 むしろキリスト教との討論を楽しみにしている感がある。 このフランシスの人間性に恐さを感じたのですよ。 それは宗教というものの恐さに通じるのかなぁと思ったりしました。 徹底して自分と言うものを貫いた男の物語、と言う気がしました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年08月30日 20時51分44秒
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