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カテゴリ:幕末・あらかると☆
尾張藩徳川慶勝サン。
このヒトってどんなヒトだったのかなぁ 明治16年(1883)8月1日60歳でお亡くなり、新宿に葬られました。 墓所には旧藩士たちから贈られた燈籠が建っている。 その中に 松平義勇、松平義生、松平安子 連名の燈籠があった。 義勇公は弟で高須藩13代藩主、義生公は義勇公の息子で14代藩主。安子は義生公の継室で慶勝サンの養女。 ちなみに義生公の正室は慶勝サンの三女・道子。 義勇公は容保候の同母弟でもありますが、年の差は24歳。 生まれた時、容保候はすでに会津藩主だったのでご兄弟といってもねぇ。 当時はかなりなやり手で、日本中を引っ掻き回す勢いだった方ですよ。 墓石はこれまたりっぱな自然石で 従一位勲二等徳川慶勝卿之墓 と書いたのは、有栖川宮 熾仁サン。 となりには前藩主であり、息子の義宜公と正室・矩姫。 16代藩主義宜公は6歳で藩主を継ぎ18歳で没。 若くして藩主になったため執政は父・慶勝サンが行っていたようです。 亡くなった当時ご兄弟の義比公は53歳(翌年死去) 容保候は48歳。 定敬公は37歳。 義勇公は28歳。 三人で東京に残っていたけれど、昭和28年春、ご子孫により改葬されたらしい。 同じお寺には義勇公、義生公も葬られています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年03月02日 22時43分34秒
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