一畳敷 幕末の探検家松浦武四郎
KOKOさんのご紹介により行ってまいりました~
松浦武四郎。
この方は北海道がまだ蝦夷と呼ばれていた江戸時代、しかも幕末に6回も探検に行き、詳細な地図を作った人。
当時はまだ新しかった手法を使って詳細な地図を表しました。
アイヌの文化にも興味を持ち、アイヌの生活を紹介したヒトで役人になったとき、松前藩のアイヌに対する態度をなんども批判し、改善を求めたが、聞き入れられず、それどころか命を狙われる羽目にもなったのです。
武四郎は政治に失望し役人を辞職しますが、そのころから「馬角斎」を名乗りました。
馬角斎は「ばかくさい」と読みます。
武四郎の失望感と洒脱な性格が現れてますな
出版物は北海道を紹介するものが沢山ありました。
「千鳥一覧」(明治3年)
箱館が鮮明に記されている箱立山、五菱(稜)郭、弁天、有川、ヘキリチ、矢キナイ、モヘシ、サツカリ、キコナイ、カツラ岳、シリウチ、福島
カモメシマには鳥居のマーク。厳島神社のことかな。
檜山、爾志の字も見える。
さらに河汲のそばには川汲ノユ。コレってあの川汲の湯だよね。
ちゃんとした地図だけではなくすごろくも書いてます。
北海道を紹介したもの。
道中寿五六(どうちゅうすごろく)1864年。
箱館、松前、江刺、久摺(くしろ)、モロラン…。
平和な時の北海道だ。
マス目にはその地の名産らしきものが…
「蝦夷訓蒙図彙集」にはマンボウ(ウチク(番飛車魚))、チョウザメ、アザラシ(水豹)などの海洋生物を始め植物も動物も割りと繊細な筆捌きで沢山書いてます。
「九摺日誌」(1861年)釧路周辺の紀行本。
武四郎は6回の探索で北海道にはカナリ詳しくなってます。
でもそれらはみんな案内してくれたり、情報をくれたアイヌの人たちのお陰だということもちゃんと記していました。
膨大で詳細な北海道の地図の付録には270名にも及ぶアイヌの人たちの名前が記されているそうです。
残念ながらそれの展示がなかったのでアイヌの人の名前が全くワカリマセンが、どれだけ感謝し、彼らを尊重していたか良くわかります。
様々な出版物の北海道の絵にも武四郎を案内してくれるアイヌの人びとや助けてくれてる図など多数見られます。
武四郎と言う人は、出版が多かったせいか、内容がうけたのか「多気志楼(たけしろう)物」と呼ばれて評判になった。
「武四郎」より「多気志楼」の方がなんか格好いいなぁ。
渋団扇をいつも持ち歩き、交流の合った人にいろいろ書いてもらってます。
その相手が凄い
市川団十郎、勝安房、シーボルト、エドワード・シルヴェスタ・モース…ひゃぁ~
頼三樹三郎とも交友がありました。
三樹三郎が漢詩、武四郎が篆刻を担当し一日に百個も作ったとか。
その三樹三郎が安政の大獄で命を落とした時は追悼の詩集を出版したほどです。
日本全国を旅しているので、出版物も様々です。
盛岡の南部暦(文盲用)の絵図。
なんて書いてあるんだかわからないけど絵文字みたいです。
こんなのもあったんだねぇ。
文字が読めない人用の暦。文字が読める人は読めたのかしら?
そしてやっぱり健脚デス。
「丁亥後記」(ていがいこうき)1887年。富士登山記は70歳の時の富士登頂の頂上付近の俯瞰図。
富士登山。しかも70歳。
その半分+αの年の私ですら、富士山は無理とキッパリ諦めているのに、70歳で富士登山ですよ。
ヤルキ満々じゃないですか。
もひとつ面白いものが。
涅槃図。
「北海道人樹下午睡図」
涅槃図というをお釈迦様の入滅を書いたものですが、当時、藤原業平や団十郎を釈迦に見立てたパロが流行ったそうです。
それに並んで描かせました。
絵師は河鍋暁斎。
河鍋暁斎大好きな国芳サンのお弟子さんだそうで。当時の画家の第一人者。
但し筆は遅かったようで、依頼から2年放置され3年目に催促。
翌年一筆書かされようやく仕上げたようだ。遅いよ…
その間も武四郎は散々指図をしたようで、暁斎はその日記のなかで武四郎のことを「イヤミ老人」と言っているのだそうだ(笑)
さて、その「午睡図」の武四郎。
腰には「火の用心」と書かれた煙草入れを提げていてこれがどうやら当時の彼のトレードマークだったようだが、なんと武四郎、タバコは吸わなかったらしいからなんとも変わったお人だったようですな。
さらにこの「午睡図」にはいわゆる釈迦が亡くなるというので人や動物が嘆き悲しんでいる図なんだけども、武四郎の周りで嘆き悲しんでいるのは誰でしょう。
収集家としてもいい仕事をしていた武四郎、集めた書画の登場人物を模写させてあろうことか嘆かせている。
いやいやなんとも洒脱の聞いた人ではないか。
いろいろ見つけてはニヤリニヤリとしてしまいます。
だって狩野探幽の「白衣観音図」の観音様まで嘆かせているんだからね。
しかもこれ「午睡図」とあるからには死んだわけじゃなく、本当にオヒルネのつもりらしいから
なんとも人騒がせと言うか、あきれたおヒトですよ。
前に見た長谷川等伯の「涅槃図」とは大違いですよ。
あのなんというか、切羽詰った絶望感というか、これからどうすんだ的な悲しい緊張感は全くなく、見れば見るほど「をいをい」と思わず言ってしまいそうなとぼけた面白さがあります。
もうヒトツのキーワード「一畳敷」
これは91点にも及ぶ木片を集めて作ったまさに一畳のお部屋なんだけど、その木片がすごい。
後醍醐天皇稜、久能寺、伊豆も神社、平等院、大宰府、聚楽第、大徳寺、伊勢神宮、三島神社、法隆寺、厳島神社…。
すごい。凄すぎる
解説を書いている方はその木片たちの故郷、つまり寺社を訪ね歩いてしまったと書いている。
その気持ち、なんかわかるなぁ
本人は集めた場所がすごいだろ。と言っているのではなく、あくまでもそれに協力してくれた人たちの思い出が大切。見たいなこと言ってるけどどちらにしてもこの武四郎と言う人を良くあらわしてるみたい。
一畳敷は本当に狭いんだけど両面が窓になっているのでそんなに狭く感じなかっただろうなぁ。
というつくり。
なんとこれ、現存してるんだってしかもウチの近くジャン。
そのうち訪ねてみようかな。
この武四郎を紹介してくれたフレデリック・スタール(米)と言う学者さん曰く、
「日本人は並外れて非個人的・非主観的で、集団で行動する傾向にあるが、趣味の幅は無限に広く、独自の欲求を気ままに満たす人種」だそうだ。
これってまさに武四郎と言う人を的確にあらわしているのかも。
あの、幕末の時代。
勤皇派とも左幕派ともつきあい、時代の動きに敏感だったのに戊辰戦争に巻き込まれず、
明治と言う時代を自分の思うとおりに生きた人なんだね。
なんか幕末の新しい生き方って感じですな。
いろんな意味ですごく興味深い人でした。
1888年71歳で没。
ダイスキな一畳敷で亡くなったらしい。
遺体は浅草称福寺に埋葬され、後染井霊園に改葬された。
遺言により大台ケ原に追悼碑も建てられた。
え。称福寺って松本センセの医学所があったところジャン
晩年の沖田さんが療養してたとも伝えられる…あの称福寺ですよ。
そして会津のお仲間さんの縁のお寺ではなかったっけ…?
不思議なご縁ですな。
KOKOさん、紹介してくださりありがとうございました。
少しは雰囲気伝わりましたかね
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