金次郎は、役人は金治郎と書いていたのじゃ。何故かはわからんが、本人は金次郎と書いておる。幼少の頃より、父親の影響で「論語」や「大学」を読んで勉強大好きの金次郎は、自家の再興のみならず、本家の再興をなし、それが評判になって、武家の再興、村の再興、藩の再興、幕府の再興へと実力を発揮していく。自ら進んでやったのは本家の再興までで、それ以降は幾度となく断った上で承知している。これは格好つけていた訳ではなく、江戸三大飢饉(津軽ではケガヅと言う)の中、天明の飢饉では自家を水害でやられており、後に「仕法」と尊徳が名づけた経済再興政策もよほどの覚悟で取り組まなければならない時代であったのじゃ。それに、百姓である金次郎が武士に三顧の礼を尽くして頼まれたら断る訳には行かなかったのじゃ。金次郎がお上の命令とは言え、他国の仕法をやると言うことは、並大抵の苦労ではなかった。先んじて下命されて失敗した武士にしてみれば、百姓の分際で成功されたら、面目が立たない。反対派の村人を使って邪魔をしたり、良くない風評を流したりしたのじゃ。民、百姓にしてみても、無為無策な役人に対する不信感は根強く、飢饉の度に年貢の増税とあって人心は乱れ荒廃していた。金次郎は言わば役人の回し者であり、よそ者であった。おらたちが一生懸命やっても駄目なものが、学問好きのよそ者になにができる。土地の荒廃を視察した上で年貢米を半分にすると、あいつは役人の回し者だからあんなことができるんだ。騙されるな。そんな事情もあって、初めて他村の仕法を下命されたときは、女房から三行半を突きつけられて離婚しておる。可哀想じゃのう。