「よくわかる市川団十郎の気持ち」
少し遅れて同じころ白血病で骨髄移植して療養中の小生には市川團十郎のこころの中の気持ちがよく分かる。そんな気がするのである。 ツイッターhttp://twitter.com/yukemuririki(国家意識ある同じ国家観のフォロワー募集中です) 21世紀の歌舞伎、象徴 白血病から復帰、闘病の舞台 骨髄移植手術後初の演奏会「小唄夜雨会」で機敏な動きを見せた市川團十郎さん=平成20年10月28日、日本橋三越劇場 (大里直也撮影) 大きな目に古風な面差し、江戸時代に誘われるような特徴ある声はいかにも歌舞伎役者だった-。歌舞伎そのものを象徴していた市川團十郎さんが3日、66歳でこの世の舞台から去った。21世紀の歌舞伎をリードする存在だった。 團十郎家は江戸歌舞伎の特色である荒事の創始者。代々の團十郎は江戸時代から人気抜群で、團十郎家は「随市川」といわれるような特別な存在だった。團十郎さんは生まれたときから義務と重責を担っていた。 しかし、昭和37年、十一代目を襲名した父は3年後に56歳で急逝してしまう。團十郎さんが19歳のときだった。その10年後には母を亡くす。古典芸能の世界で、後ろ盾となる親がいない苦労は大きい。白鸚や松緑の叔父らに教わることはできたが、後に「40年代はがむしゃらの時代です。父が死んでからは舞台、舞台、舞台。右も左も分からないまま夢中で、なりふり構わずの状態でした」と回想している。 新之助時代は、尾上辰之助さん、尾上菊之助さん(現菊五郎)と三之助ブームを起こし、海老蔵になってからは父親と同じように"海老さま"と呼ばれ、「大器」という評判をとった。そして60年の團十郎襲名は「演劇界の今世紀最大の祭典」とされた。 平成16年5月に白血病を発病したが、同年10月、パリ公演で復帰。闘病を続けながら舞台に立ち、20年7月、妹から骨髄移植を受け、同年10月に本格復帰していたが、建て替え工事が進む歌舞伎座(東京・銀座)で今年4月から予定されるこけら落とし興行を迎えないまま、世を去った。 おおらかで物に動じない印象が強い團十郎さんだが、そうではなかった。 「本当に迷いました。成田屋に生まれたというだけで襲名していいのか。何もせずに文句を言われないより、何かやって文句をいわれる人間になろうと。そんな気持ちが襲名を決心した大きな原動力でした」。父を亡くしたことは「これは運命。運命をどう使うかは自分」。この運命を縦軸に、「何かをやってやろう」というチャレンジ精神の横軸を交差させた人生だった。 歌舞伎誕生400年の取材で歌舞伎の将来について、「四季のある日本の、人間の根本はそんなに変わりません。喜怒哀楽は進化しようがありません。継続は力。続いていくことが大事」と語っていた。 「大きな愛のある人だった」と海老蔵さん 容体は3日に急変 市川團十郎さんの自宅前で取材に応じる長男の海老蔵さん=4日午前、東京都目黒区 市川團十郎さんの遺体が安置された東京都目黒区の自宅には、4日早朝から多くの歌舞伎関係者が弔問に訪れた。午前8時半過ぎには長男の海老蔵さん(35)が自宅前で取材に応じ、「大きな愛のある人だった。自分のことはさておいても家族のこと、歌舞伎のこと、興行のこと、みんなのことをよく考え、体が辛くても決して弱音を吐かなかった」と、目を潤ませながらもはっきりとした口調で父とその闘病について語り、気丈に振る舞った。 海老蔵さんによると、当初は「肺炎の兆候」とされた團十郎さんの容体は、3日午後になって急変。「前に(白血病など)大きな病気を患って免疫力が下がっており、感染症に非常に弱い状況だった。最終的にはいろんなものが重なってしまった」と説明した。 團十郎さんは12月に入院したが、病室で海老蔵さんが出演した1月の東京・新春浅草歌舞伎のビデオを見せると、「まあまあ」と評するなど、意識もはっきりしていた。 1月19日からは「肺の状態が芳しくない」として、眠りながらの集中治療を選択。意識を失う前に、公演中の海老蔵さんとテレビ電話で対面、「そのとき父はもうしゃべれなくて、家族の話だと、苦しい状況でも、僕とテレビ電話でつながって珍しく笑顔だったと。それが意識があるなかでは最後でした」という。3日夜は家族で最期を看取った。「(闘病から)やっと解放されたという表情で、笑顔でした」 海老蔵さんの妻、麻央さん(30)は第2子を3月に出産予定。男児と分かったときには「父が今までになく喜んでいたそうで、一緒に舞台に出たかったでしょうし、抱きたかったでしょう」と声を詰まらせた。今後については「まったく至らないけれども、父の思いを少しでも受け継げるように、歌舞伎に邁進、精進していこうと思う」と誓った。 自宅には坂東三津五郎さん(57)、市川染五郎さん(40)、中村時蔵さん(57)らが姿を見せ、時蔵さんは「最近、容体がよくなったと聞いていたので、突然のことでショックです。(團十郎さんは)歌舞伎界になくてはならない人。また同じ舞台に立つのを楽しみにしていたのですが...」と話した。自宅前には100人近い報道陣が詰めかけ、自宅前で手を合わせたり一礼たりする通行人の姿も見られた。 ラストインタビュー「日本の伝統文化には、シェールガスのような地下資源が山ほど眠っている」 京都・南座 3日亡くなった團十郎さんは昨年12月18日、風邪をこじらせ出演中だった京都南座での顔見世興行を休演した。その1週間前の11日、南座の楽屋で取材の機会があった。くしくもその日は、昨年12月5日に亡くなった中村勘三郎さんの密葬の日。長男・勘九郎さんの襲名披露での訃報に「歌舞伎という根本の幹があり、日向だけでなく日陰にも、全方向に枝が出ていることが大事。その中で一つ、茂ろうとしていた大きな枝が折れ、バランスが崩れる」と残念がった。しかし團十郎さんという江戸歌舞伎の根幹までもが折れようとは、自身も予想外だったに違いない。 團十郎さんは4月に開場する歌舞伎座の建て替え期間中に、鬼籍に入った中村富十郎さん、中村芝翫さん、中村雀右衛門さん、勘三郎さんの名を列挙し、「3年が随分重い月日になった。百年、十分持つ劇場であってほしい」と願いを込めた。 荒事を創始した市川家当主として、江戸歌舞伎を代表する立場にあった團十郎さんは、家の芸である「歌舞伎十八番」を大切に演じ、歌舞伎の「幹」で有り続けることがすなわち、日本の伝統文化振興に繋がるとの意識を、常に持っていた。「歌舞伎界として」「日本文化では」と大きな視点で発言することは、それまでも多々あった。 雨の中、各界の著名人2,500名が参列した。「一緒に飲めてうれしいよ」と海老蔵に本当に笑顔で言ったという。海老蔵は「とても寂しいです。しかし、父の子と生まれてとても幸せでした」白血病の治療で「無間地獄」と表現していた。生前最後の言葉は「いつもみんなありがとう」だった。小生は白血病になってから娘が結婚して、孫もでき雛も贈ることができた。孫も抱きたかったろうが、それもせんないもの付録の人生で十分歌舞伎界のために働いた。 團十郎の気持ちは海老蔵も自覚して、いっそう精進出来るだろうという想いでこの世を去ったのだろう。 パソコンにメモが残っていて「色は空 空は色との 時なき世へ」と時世のようなものがあったという。ところで、テレ朝の番組で見なくなったのにモーニングバードがある。もし小生が社長だったらモーニングボイスとして玉川氏と赤江さんのコンビ司会で4月から青山繁晴氏をコメンテータとして加え玉川氏のそもそもコーナーを週2回にして視聴率を上げるのだが、ハトリとかいうキャラはコメントもなぜかくだらなく個性的に好かれないものを持っている事が分かっていないようだ。 米中韓のサイバーテロや産業スパイに狙われている。NHKを筆頭に民放テレビ各局のメディアの役割と甘さには呆れる。本当に責任も多大である。 フランシスコ・ザビエルは日本に西洋文化を紹介した宣教師だったが、彼の所属したイエズスス会は宗教集団と同時に軍事組織でもあり、西洋列強による英国の植民地拡大の尖兵だったというのが歴史の真相である。 民主党も政権与党時に安全保障部会で検討していたが、サイバーテロやスパイ関連の法規で重罰にするスパイ防止の法律も必要がここにきて現実的に出てきた。 ←賛同されると更新意欲が増す癖あり、お仕舞いにさせていただきます。