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うちには、ずいぶん前からクチナシがあり、 毎年実をつけているのですが、 利用したことがありません。 黄色の食紅として使えるわけですから、 栗きんとんとか作らない我が家でも、 母の沢庵作りとか、たまに黄色いおこわを炊いたりとか、 利用できそうなんですけどね。 今年こそ、ちょっとやってみましょうか。 おまけに、姫沙羅の実もね。 姫沙羅の実は、産毛が生えていて、 なんか、懐かしいような形をしていますが、 これといって、利用法がありません。 おまけに、来年の夏まで、ずっと枝についたままなんですよ。 手で触っても、取ろうとしても、しぶといです。 さて、では、昨日の続きで父の思い出をもう少し。 父は、鹿児島の大きな和菓子屋さんの長男。 だけど、文学にあこがれ、設計の勉強をしている頃、 軍隊にとられて、砲兵になりました。 確か、若い頃ロマン・ロランが好きだったと言っていたので、 調べてみたら、 平和主義、反ファシズムの作家なんですね。 そんな作家が好きだったのに、軍隊にとられて戦争するのは、 複雑な気分だったことでしょう。 軍隊では、砲兵ですから、砲弾の落下地点を見て、 修正するのには、計算が必要だったみたい。 家に戦友の人を連れてきて飲んでいるときなどに、 懐かしそうに話していました。 抑留中の話なんかも、よく聞かされましたよ。 どんどん仲間が亡くなっていく中で、 父はよく生き延びたものです。 飲んでいる時、決まってかけるレコードは、森繁久彌さんの物で、 軍歌がいっぱい入っていました。 おかげで、たいていの有名な軍歌は歌えます。 父が、お客さんと飲んでいる時、私は、 丹前姿の父のふところに潜り込んで、抱き着いていました。 (本当に小さい頃です) また、 私が眠る頃に家にいた時には、 決まって「月の砂漠」を歌ってくれたので、 この曲は、私にとって、ちょっと特別。 母が何か歌ってくれたかどうか、全く記憶にないけど、 父の子守歌は、覚えています。 私は、本当に父と顔がよく似ているの。 生まれた時から、父はそれが自慢で、 足が速いのも、成績が良いのも、筋力が強いのも、 みーんな自分に似ているからだと言っていましたよ。 そんな子煩悩な父でしたが、金銭的には全くだめ。 空調関係の設備会社の社長さんだったのだから、 きっと、お給料もそれなりにもらっていたはずなのに、 母には全く渡さなかったって。 ほとんどが、会社の若い人たちの世話とか、 知り合いの人が困っていたら、お金を渡したりとかで、 家庭生活は母にまかせっきり。 喉頭がんになった後、郊外に家を買い、 その頃からは、少しは母にお金を渡してくれるようになり、 家のローンも、がんばって払ってくれたから、 母は、もう仕立屋さんをしなくてよくなりました。 それからですね、母の趣味三昧は。 父は一日2箱くらい吸っていたタバコをやめ、 お酒を飲む量も少し減らしました。 だけど、仕事のストレスや不摂生のせいでしょう、 高血圧と、動脈瘤とは、長いおつきあい。 結局2回も破裂。 父の趣味って、何だったのかなぁ。 母の兄さんと会うと、必ず囲碁をやっていたし、 日曜日には、囲碁の番組をよく見ていたから、 囲碁くらいのものかしら。 私と遊んでくれたのは、将棋の山崩しと、はさみ将棋。 普通の将棋はしたことがありません。 そういえば、母が留守の時には、父が料理をしてくれました。 そばを打ってくれたこともあったし、 父の作ったけせん(肉桂)団子は美味しかったなぁ。 けせん団子って、こんなのですよ。 ニッケの葉の香りがお団子にしっかりついているんですよ。 ただ、料理の後片付けは全部母任せだったので、 母は、ちょっと不満そうでしたけどね。 だけど、 思春期の頃を除いて、私にとっては大好きな父でした。 7月14日が父の命日。 ちょっと早いけど、供養になったかも・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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