テーマ:暮らしを楽しむ(387909)
カテゴリ:習い事
これは、まだまだ完成形ではないのです。でも、基本の形はこれ。 この短歌は、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)という人が作った歌です。 奈良・平安・鎌倉の頃は、星を詠んだ歌としては、中国から伝わった「七夕」関連のものが多く、この歌のように、星そのものの美しさを詠んだものはほとんどありません。 この歌は「建礼門院右京大夫集」という家集の中に出てきます。 彼女は、若い頃に建礼門院・平徳子(高倉天皇の皇后となり、安徳天皇を産んだ人)の元に出仕し、その頃に平家の公達平資盛(清盛の嫡男重盛の次男)と恋仲になります。でも、その後平家は源氏に滅ぼされ、資盛も都落ちしました。そして資盛は、 あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞかなしき (生きていることが生きていることにもならない、この世のうちにあって、その上こんなつらい目にあうのは悲しいことです) という歌を右京大夫に送った後に壇ノ浦の戦いに敗れ、急流に身を投じて自害しました。 それを知った右京大夫は、歎き哀しみ、傷心の日々を過ごしました。自分が仕えていた建礼門院徳子が入水したのに助けられてしまい、出家し、大原の寂光院で安徳天皇と平家一門の菩提を弔っていると知り、訪ねていきます。 その女院のお姿を見て なにごとにつけても、世にただ、なくもならばやとにみおぼえて、 (女院さまの変わりはてたお姿、消えやらぬあの方の面影など、何事につけても、ひたすら死んでしまいたいとばかり思われて) なげきわび わがなからましと 思ふまでの 身ぞわれながら かなしかりける (嘆き疲れその果てに いっそのこと死んでしまえたら と思うまでになったわが身が われながら切なくいとしい) 都にいても、悲しいことを思い出すばかり、と、比叡坂本に行ってはみたものの、やはり思い出されるのは資盛のこと。 ありし世に あらず鳴子の おときけば 過ぎにしことぞ いとどかなしき (昔とはすっかり変わった世の中になってしまって 風に鳴る鳴子の音を聞いていると 過ぎていった懐かしい日々が思い出されて いっそう悲しくなる) 我が心 うきたるままに ながむれば いづくを雲の はてとしもなし (揺れ動く心を抱いて 都の方を眺めると 雲は広漠と続いていることよ 私の物思いもはてしない) この比叡坂本で過ごしていた十二月初めの夜。右京大夫は、ふと夜空を見上げます。 ここからは、現代語訳で …十二月ついたちごろだったでしょうか、夜になって雨とも雪ともつかぬものがちらついて、雲の行き来があわただしく、すっかり曇りきってはしまわないで、あちらこちらに群がって星がかすかに見え隠れしていました。 夜も更けたころ、午前二時半ごろでしょうか、頭までおおって寝ていた夜着を引きのけて夜空を見上げると、よく晴れて、藍色のところに特によく光っている大きな星々が一面に出ていたのは、たいそう趣深く、はなだ色(藍色よりも薄く、浅葱色よりも濃い色)の紙に金色の箔を散らしたのによく似ていて、今宵はじめてみたような気がします。 これまでにも月のように明るい星月夜を見慣れてはいましたが、旅先という折が折だからか、ことのほかすばらしい気がするにつけても、ただ物を思うばかりです。 月をこそ ながめなれしか 星の夜の 深きあはれを こよひ知りぬる (これまで月を眺めなれてきましたが、星月夜の心に染み入る美しさに 今宵はじめて胸打たれたことです) これまでずっと、亡き人のことを偲んで涙にくれていた右京大夫にとって、この星月夜の美しさは、しばし心が晴れたひとときだったようですね。(この後に続く歌は、やっばり悲しそうです) というわけで、この歌を選び、今回の展覧会に出す作品作りをしているのでした。 来年は、自分で詠んだ短歌を作品にして出そうと思っていますけど、今年はこの短歌を書きます。 一月には表具屋さんに出すので、12月中には仕上げて、先生にOKを出してもらいたいなぁ・・ おまけ もうひとつ こういう古文書も参考にして、どんな仮名を使うか、考えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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