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入院しているだけだけど、退院してからも、その後は老人福祉施設に行く予定。 だから、母の介護用に、いろんな物を配置していたのを 私たちが使いやすいようにしました。 ポータブルトイレも、処理シートも、紙パンツも、歩行器も、 そのうち私が使うかもしれないから()、一応奥の納戸に保管。 昨日電話した従姉に、「尿もれパッドとかもいっぱいあるけん、欲しかったらあげるよ。」 と言ったけど、「まだ、いらんごたー」と笑っていました。 わたしより、6歳年上だから、そのうち必要になるかも。 まあ、腐るもんじゃないから、保管しておきましょう。 母が寝室を使わなくなったので、思い切って、エアコンを取り換えることにしました。 1996年に二世帯住宅にしたときに、家じゅうに7台のエアコンをつけたときの生き残りです。 ずっと母がここで寝るようになり、暖房をつけると何か音がするのがわかりました。 パチン、パチンと、音が続くのです。 気になっていたけれど、母が寝ているときには工事しにくいので、そのままになっていました。 もう一台、踊りの稽古場(花柳流の踊りの生徒さん用)にしていた部屋のエアコンも、 暖房機能が使えなくなっていたのも、一緒に取り替えることにしました。 まだ繁忙期ではないので、明日にでも工事できるという話だったけど、 明日はコーラスの練習があるので、明後日の火曜日に工事してもらうことにしましたよ。 これで、娘が帰省してきたとき、ばあちゃんの寝室でも、客間でも、 安心して泊ることができます。 では、庭の写真。 母の日用に買ってきたアジサイ「ひな祭り」を、大き目の素焼き鉢に植え替えて、 外を通る人にも見える場所に置きました。 ここは、キンモクセイや獅子咲き椿のおかげで、半日陰になる場所。 道行く人たちにも、この花の可愛さを見ていただきましょう。 がんばって草取りしているので、割とすっきりしています。 たくさんの百合が咲いてくると、綺麗だろうなぁ・・・ 花鉢コーナーも、いい感じ。 やっぱり、スーパーチュニアは、すごいです。 花数がどんどん増えています。 今年は、ゼラニウムも、バッチリ!! まだたくさんのつぼみが見えていますから、これから凄いことになるのかも。 さて、ここからは、母のことを書きます。 なんで、私が母のことが苦手なのか。 確かに、育ててもらった恩があるのは、よくわかってる。 でも、心を傷つけられたことの方がはるかに多い気がする。 9歳も年上の薩摩の男と結婚して、母はなんか遠慮があったのかな? 父は、とにかく面倒見がよかったから、 お金があると、部下とか知り合いのために使っていたようです。 だから、経済的に不安定な時期が続き、母は洋裁の内職(紳士服)を始めました。 父は、一応会社の社長さんだったのに、家にはあまりお金を入れなかったから、 母は、徹夜で洋裁の仕事を続けていました。 その姿は私も見ていたし、感謝もしています。 だけどねー。 そんな父に対するイライラのはけ口が私だったのよね。 一人っ子だから、私に父の愚痴を言う。 私が何かいったら、カチンと来て、怒りをぶつけてくる。 手近にあるミシン用の糸巻きを投げつけられたり、コタツの上のミカンをぶつけられたり。 一番イヤだったのは、小学校二年生のときに、母が家出をしたこと。 母が家に帰らなくなって、母方のばあちゃんとか伯父さん、伯母さんなんかも うちにやってきて、大人だけの話があっていた。 この曲は、ちょうど母がいない頃にNHKの「みんなのうた」で流れていたもの。 だから、この曲を聴くと、あの時のどうしようもない気持ちを思い出します。 いったい、どのくらいの期間、いなかったのか、はっきりと覚えていないけれど、 最初は、年末に友達と山に行って初日の出を見てくる、と言って出かけていたので、 山で遭難したのかもしれない、と大騒ぎでした。 しばらくしてから、そうではなくて、家出だったとわかりましたが、 私は、「捨てられた」という思いしかありませんでしね。 (母は、私のことより、自分が楽になること、自由になることを選んだんだ) と、母への信頼もなくしました。 冬休みが終わり、どのくらいたったころかわからないけれど、 学校の帰り道のところに、母が待ち伏せしていました。 それからまた、しばらくして、家に母がもどってきて、父に謝っていました。 それは覚えています。 三年生の夏休みに引っ越しをして、小学校を転校したのも、そのせいなのかな? その後も、母の内職は続き、父への不満から、私に当たることも続いていました。 突然怒り出すので、何も言えません。 ヘタに言い返すと、よけいに怒るから、知らん顔しているしかないですよね。 というわけで、私は親をあてにしないで、ほとんどのことを自分で決めて行動するように。 私が高校三年生のときに、父が喉頭がんで入院し、 手術後も、母は付き添いで留守がちになりました。 おかげで、私はのびのびと生活できるようになったんですよ。 いきなり怒る人がいないのは、快適です。 病気のあと、父はもう少しお金を入れるようになったのかな? よくわからないけれど、 その頃から、母は自分で稼いだお金で飲みに行ったり、 いろんな趣味に没頭するようになりました。 母の酒量は凄くて、酔うとべろんべろんになっていましたよ。 友達を連れてきて、うちで騒ぐこともありました。 父も、どこかで飲んだあと、会社の人やお店の人を連れてうちに帰ってきて、 よく、家でどんちゃん騒ぎをしていたんです。 飲み屋でたまたま会った人と気が合って、うちに連れてきたりね。 それがいやでした。 私の高校受験の前の晩も、大騒ぎのどんちゃん騒ぎだった・・・ 四月の終わり頃、母の認知症がまだそんなに進んでいない頃、 (母)「あんた、Sさん、覚えとーね?」と尋ねてきました。 きっと、昔話をわたしとしたかったのでしょう。 Sさんは、父の戦友で、ものすごく陽気なんだけど、大声だし、いやだった。 (私)「覚えとーよ。うちで酒飲んで大騒ぎになるとが、本当にいややった。」 と答えると、母がびっくりしていました。 こんなにはっきりと言ったのは、初めてだったからね。 (昔なら、怒鳴りつけられるか、叩かれるか) 母は、私の返事を聞いて、それ以上Sさんの話はしませんでした。 それから、 (母)「あんたの世話はあんまりしとらんのに、今はあんたに全部任せてしまって、 本当に、めんぼくない。」 とも言っていたので、 (私)「いや、今の方がいい。前はとにかく私が何か言っても、ケチをつけるばっかりやし、 急に怒ったりするけん、あんまり近くに寄りたくなかった。 今は、ありがとうとか、言ってもらえるようになったけん、気持ちがいい。」 「子どもの頃は、こんな大人にはなりたくない、こんな母親にはなりたくない、 て、心に決めとったけんね。やけん、私の子供に対しては、 絶対に、八つ当たりとかせんようにしとー。」 「ひとつ良かったのは、就職してからどんなにいやな上司がいても、 うちのおかあちゃんよりまし、と思えたけん、それは良かった。」 「とにかく、私にとって、おかあちゃんは反面教師やったけん。」 ついに、堂々と言い放つことができました。 おかげで、すっきり。 長年の溜まっていたつかえがとれた気分。 母が体が弱って、私に頼るしかなくなったから、ようやく言えた言葉です。 母は、ちょっとショックだったかもしれません。 でも、母の認知症がひどくならないうちに、このことを言えたのは、本当に良かった。 復讐できたような気がします。 だから、その後は、ものすごーく優しく接することができましたよ。 こうして、ブログに書いているのも、私の復讐かもしれません。
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kororin912
好きなものがありすぎて、時間が足りず困っています。 そんな私の、自由日記。
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