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カテゴリ:アート!
昨年の10月にジャンバッテイスタ ピラネージ
生誕300年だったことをご存知の方はあっただろうか。 *私は知らなかった。* 先日イタリアの国営放送RAI STORIAの番組で特集を やっていたので、画像もそこからいただきながら、 少し話してみたい。 ピラネージは、1720年ヴェネツイア生まれ。 もともとファミリーの出身が、現在のスロヴェニア 内にあるトリエステ近くのピラーナであったことから ピラネージの名字があるそうだ。 (父方は、石切り工の家系で、母方には建築家がいる) ヴェネツイアでは仕事を見つけられなかったために、 20歳でローマにやって来る。 ちょうど時代は、ヴェネツイア共和国の最後という時だ。 彼の内心としては、建築家として名を挙げたかった ようだが、エッチングの方で名をヨーロッパ中に 知らせることになる。 彼の一番有名なエッチングに、カルチェレ 刑務所と 名付けられたシリーズがある。 どこにも行けない階段とか、拷問にあっている巨人とか、 私にはかなり怖い場面だが、ここから沢山のアーチスト がヒントを得ている。 例えば、エッシャー。 それからユースナールのピラネージのメンテ ネラ *暗い精神*という題の本など。 また、ローマ風景と言われる古代ローマの遺跡のエッチング は、300年前の遺跡を語るものであり、非常に興味深い。 当時、グランツアーでヨーロッパ中の金持ちがローマに やって来たときに、これらのエッチングは非常に受けたらしい。 彼の工房は、当時トマテイ館にあったそうで、現在のスペイン 階段からすぐ近くのグレゴリアナ通りになるから、場所的にも 最高のスポットにあったことになる。 また、彼の知られない一面に、考古学者また古物商としての ピラネージがある。 さまざまな場所で行われていた発掘に参加し、そこで見つかった 発掘品を修復し、ヨーロッパ中のお金持ちに売りつけた。 そこからかなり財産を作ったらしい。 *特にフランスや英国で知られていた彼は、由緒あるロンドン の古物商会員としても認められる* 最後、ナポリからペストウムに出かけて、マラリアにかかり 58歳でローマで亡くなってしまう。 亡くなる前に唯一、彼が建築家として残した作品がローマに 残っている。 アヴェンテイーノの丘にある聖マルタ騎士団の庭や教会、 また騎士団の建物の前の広場。 彼と同じヴェネツイア出身の法王クレメンス13世の声がかかった からだ。 有名なアヴェンテイーノの丘の聖マルタ騎士団敷地内 にある、サンタマリア デル プリオラート教会 *ピラネージはここに眠っている* 有名なアヴェンテイーノの穴はここ。 (ブロンズの扉の鍵穴からサンピエトロ寺院のクーポラ が、騎士団の庭の奥に見えて、素敵) ピラネージのエッチングは、当時としては革新的なものだった らしいが、バロック最後のアーチストとも言われる、やはり ヴェネツイア出身のテイエポロのエッチングの影響を受けている。 テイエポロが描いたエッチングから、ゴヤのエッチングが 生まれてくるのだが、こうして、色んなアーチストが繋がって 来るんだなと思う。 *テイエポロは、スペインの王様に呼ばれて王宮のフレスコ画 を描きにマドリッドに行き、そこで亡くなる* 知人に教えてもらったのだけれども、またギュスターヴ モロ は、マテイスの先生だが、彼もピラネージの影響を受けている とか。 私が持っている、1700年代のローマの地図は、ジャンバッテイスタ ノッリというアーチストが、このピラネージの協力で作成した ものになる。地図にはベネデット14世の名前がバンと出ている。 つまり、法王様はスポンサー。 短い58年の生涯で、ピラネージが残した業績は素晴らしいもの だったと思う。 *彼は現在もローマにある、サンルカ芸術アカデミーの会員と しても認められていた* トレビの泉の後ろにあるお屋敷ポーリ館は、現在エッチング美術館 になっているのだけれど、そこでピラネージの展覧会が10月半ば オープンだった。 ロックダウンのために行けず仕舞いだが、出来たらそのうち 是非とも行きたいと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.01.27 22:32:41
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