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カテゴリ:ライフスタイル
人も商品? ライフスタイル
魚屋さんには、死んだ魚が陳列されている。スーパーには鳥やその他の、かつて生きていたものが並んでいる。 仏教では、「殺生をしてはならない」という戒律がある。 考えてみれば、理想はそうだが、到底この教えを守ることはできそうにない。 開祖である。釈迦も、この戒律は守れないことを知っていた。 人は生きるためには、他の命の犠牲によってその命を繋いでいくのである。 「戴きます」と言い、ご飯を食べる習慣は今も家庭では残っている。 他の命をありがたく頂き、自分たちの命を延命させてくれる。生きとしいけるものへの感謝の気持ちを込めるのが、その慣わしとも聞いたことがある。 なるほど、そうであったのか、と思った記憶がある。 人間は生きていくために食べるが、平和的な手段として、自分の才能を販売するのである。 肉体労働や頭脳労働等がその形である。 タレントを売るのは、生きていくためにするのである。 だから、労働に差別はないのである。 とはいえ社会評価があり、医者や、弁護士、大臣、大企業の社長等は、その水準が高く設定されている。 だからそれらの門を目指し人々は殺到するのである。 人生の目的があたかも食べるためにあるかのごとくである。 ある時、農民が乞食僧に、何故田んぼを耕さないのか?と尋ねた。 僧は、答えて、「私たちは人々の心を耕しているのである。」と返答された。 農民はいたく感銘を受け、報酬を差し出そうとした。 それに答えて、「私たちは詩歌を為に報酬は受け取らない。」と釈迦は答えたそうである。 さて、釈迦は何故その労働に対して、報酬を受け取られなかったのであろうか? 私たちも一度、この偉大な聖人の言われた意味を考えてみるのはいかがであろうか? 我々は食うために生きる。そして死ぬ。ただそれだけである。 私たちは生きてきた意味を知らずに、ほとんどの人間は死んでいく。 それがあたかも当たり前のようにして、毎日時だけが過ぎるのを見守っている。 それもおおいなる自然の理であるのだろう。 生きてゆく不思議、死んでいく不思議、鳥も人も・・・というアニメの主題歌が、 静かな大いなる大河として流れていく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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