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カテゴリ:ライフスタイル
「一度きりの人生・・・」 ライフスタイル
○ 普通の常識 ○ 輪廻転生はあるのか 死後は無であるとするのが、一般常識と考えられるだろうか。 死んでも、亡骸はあるから、土葬や火葬される。 死への怖れは、生命の終焉を意味することによる恐怖感からきている。 輪廻転生が事実なら、死は注射の痛みと、さほど変わらないように考えられるだろう。 死への怖れの実体は、本能に刻まれた、DNAに由来している。 何故死を恐れるのか?を、正しく説明できる人は存在しないだろう。 それほど死は難解な問題である。 輪廻転生を述べる宗教解釈も、地獄や煉獄の恐怖を伝えている。 死んでも恐怖、死後も恐怖・・・ 中々人間の運命はままならない。 心を癒す方法として、良いことをすれば、天国に行けるとも言われるようになった。 法然上人にはユニークな臨終の話がある。 その弟子である親鸞聖人は、死ぬまで法然上人の教えの「南無阿弥陀仏」を信奉された。 法然の弟子たちは臨終の床に遭った師に、しつこく尋ねたそうである。 「南無阿弥陀仏を唱えたなら、間違いなく極楽にいけるのですね・・・」 念には念を押し、しつこく死に行く法然上人に食い下がったそうです。 親切な上人は、「間違いなく極楽へ行けそうだ、南無阿弥陀仏を唱えれば行けること間違いない・・・」 と掠れた声でそういわれたそうな?? 親鸞聖人はこの問題を、上手く解決している。 歎異抄には、同じく「南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽へ行けるのは本当なのですね・・・」 この宗派では、絶えずこの議論が蒸し返されてきたそうである。 親鸞聖人曰く、「もしも、私が南無阿弥陀仏と唱え、法然上人を信じて、極楽へ行けず、譬えそのことによって地獄へ落ちることがあっても、それはそれでいいと考えている。・・・」 このように答えられたそうです。 常にこの問題(極楽行きか、地獄落ちか)は、歴史的に蒸し返され続けました。 結論から言えば、どちらとも言えないが、正答なのでしょう。釈迦はそのように言われたそうです。 詳細は膨大な仏典を紐解けば載っているそうですが、私はその仏典を知りません。 行けないと言われる理由は、 日本人は「南無阿弥陀仏」の音の意味を正確に理解せず使用している。 仏教の原語は、釈迦の言葉から発しているので、それは日本語ではなかったとする論理です。 南無=ナム、 阿弥陀仏=アミータを、漢字に当てたことによります。 般若心経≠(私は長い間)、こわい般若のお面を想像していました。(笑) 般若=パンニャー=知恵を指すので、このような音を無理やり漢字にふったので、 大きな誤解も生じたことでしょう。 ですから、現代風に、ナミアミターと替え、しっかり意味を理解させてから、唱えさせる方が、極楽への切符は受け取りやすいというのが、私の結論です。 仏教とは文字通り、仏の教えです。三蔵法師のインド旅行によって日本にも伝わりましたが、 漢字での翻訳に、少し無理があった気が致します。 正しい解釈を伝える情報化時代が到来したのでしょう。 ナミアミターブッダ・・・ (計り知れない知恵の光を持つ、仏陀を信じます。) 仏陀自身は「私さえ信じてはならない、あなた自身の観察を磨きなさい。その磨かれた 客観的な眼によって、事実を見るようにしなさい。・・・」そう遺言なされたそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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