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カテゴリ:なんでもない日々
<コメントつけにくい文章なので、スルーして下さい。
だけど、私たちは、だんだん親や、義父母、知っている人の訃報に接し始める年になってきたように思います。 そんな時、こんな文章を書いてみたりすると、それだけでも想い出になるのかなぁと思いだしてもらえればと思います> おばあちゃんに会いに行った。 おばあちゃんは、92歳。息子からは曾祖母にあたる。 実家は父方祖父母は在宅で健在、母方の祖母が数年前から施設に入っていた。 祖父は私が中学の時に亡くなっている。ドイツ滞在時だったので、本当に遠い国の出来事で、初めて見る母の狼狽ぶりの方が印章的だった。 だから私の生まれて初めての身内のお葬式は、自分の息子のお葬式だった。 祖父が逝去した後は、代々木のどデカイ億ションに祖母は独りで住んでいた。 新年の挨拶に行くと、向かいに住む浅利慶太宛の年賀状を届けに行かされた。普段は青山の紀伊國屋まで歩いてパンを買いに行き、そこで賄えないものは三越の外商が来たり、銀行員もよく来ていた。時代もあったのだろうけれど。祖父の財力に感心し、それは孫の代には何の影響もないのだと変な感心もした。 そんな裕福な暮らししか知らなかったので、祖母が母の妹、つまり自分の娘を自殺で亡くしていた事実を知った時の衝撃は大きかった。小さい時に風邪をこじらせたと聞いていたのに、思春期の、自室での首吊りだったなんて。祖父の社会的地位もあって、警察沙汰にならないような配慮等大変だったろう。 「神経質な子だったのよ」。母はそれ以上は詳しくは語らなかった。 私が次男を亡くした時、祖母は「あんたも大変な苦労をなすったわね」とだけ言った。余計なことを言わない方が慰められるとご存知だったのたろう。 その祖母が自宅で転んで動けなくなったのは、数年前のことだった。 毎日決まった時間に母が入れる電話に、出ない。慌てて管理人室に連絡を入れて合鍵で様子を見てもらうと、下着姿で身動きできずに憔悴する祖母がいたらしい。本人のショックも大きく、プライドが折れてしまったらしく、気力がずいぶん低下したようだ。 それから間もなくして、タイミングよく空いた公立のケア施設に祖母は入居した。 会いに行くと、施設は見た目きれいな児童館か保育園のようだった。 本当に小さな棚とベットだけが与えられたスペース。それまでの生活との落差をどう感じていたのだろう。 かける言葉が見つからず、室内に貼られた折り紙や貼り絵を「きれいね」と言ってみた。 おばあちゃんはくくっと小さく笑って、まぁ(施設の)皆さんが一生懸命なんでお付き合いしてるけど…この年で幼稚園みたいなことを毎日させられてるのよ。と、それ言っちゃあおしまいなことをにこにこしながら言う。 誕生会のお知らせに、書き初めの掲示。確かに幼稚園みたいだけれど…見渡す限り、お年寄りばかり。何かをずっと呟いていたり、不思議な姿勢や遠い目でテレビを見ていたり。ミタコトノナイ生物バカリの空間のように感じられて、心の中でごめんねと思いながら、私は逃げるように施設を去ってしまった。 帰ると息子がはぁはぁ言いながら犬のようにまとわりついて抱っこをせがむ。 うっとうしく思うこともあるが、生命力いっばいの姿にその時はぎゅうっとしたくなった。 大きくなった長男を施設に連れていった昨年は、まだ取り違えながらも意識のはっきりしていた祖母なのに、今年の年明けに会ったらすっかり変わりきってしまっていて驚いた。 目の色がすっかり薄く、光が失われ、顔の形が崩れていた。もう、私のことはわからなかった。習性で深々と頭を下げてくれる。でも、話し掛けても返事はない。 困った私は、母が施設の人と連絡事項している間黙って祖母につきそっていた。 驚いたでしょう、と戻った母に言われた。うん。 なんかねー最近全然だめなのよ。目の前で母がずけずけ言う。 わわわ。最近ますます乱暴者になったね、と母をなじると、なにいってんのよ、などと母が応酬してくる。虚ろな様子で見ていた祖母がふと、昔のようにくくっと笑いながら、一言「あんたたち、よう似とるね」。 …ないすだなぁ、おばあちゃん。ちょっとやられちゃった。 その母から慌てた電話が入ったのは金曜日だった。 高熱で救急車で運ばれた、と施設から連絡があったそうだ。それから3日経っているけど、とにかく緊急連絡先をうちにしているからその連絡をと言っていた。 どうなの?と聞くと、病院は土日はなにもしれくれないのよ、とか、食べれてないから注射している、などと、素人らしい要領を得ない返事が返ってくる。 夫が勧めてくれたので、おばあちゃんに会いに行くことにした。 とってもどきどきした。 重い気分だった。 病院は苦手だ。 死が近いかもしれない人に会いに行くのは、苦痛だ。 これが最後になるかもしれない、なんて思いながら会いに行くなんて。 実家の方面に向かって、電車とバスを乗り継いで行く。 駅で母と合流して、初めて行く病院に行った。 建物に入ると、むっとした湿気と、以前1年間息子の看病のために通っていた、あの、病院のICUの臭いがした。 毎日かいでいた、あの、臭い。 もう、5年も経つのに、こういう、感覚的な想い出は、冷酷なまでに時を超えてよみがえってくる。 廊下の突き当たりの、カーテンの奥に、小さく、小さく、おばあちゃんは寝ていた。思っていたより、顔色がよい。肌つやもよい。 施設は暗くてわからなかったけれど、こうして明るい所で見ると、ていねいにケアされていたことがよくわかる。 声をかけると、ふごふごと口を動かした。 ご苦労様です、と言っているようだ。 母が、私の名前を指さして言うと、いちおうあぁ、という顔をした。 私も、お元気ですか、と、重病人に声をかけてみる。 深く、たんがからんだ咳を、繰り返していた。 辛そうだ。咳は、重病人の体力を奪う。 病名は肺炎だった。 アミノ酸のどでかいパックがベット脇に吊られていた。 母が承諾書の類を書いてはいないというので、IVHは入っていなくて、単に静脈注入なのかもしれない。 「お年だから覚悟はして下さい」と言われたそうだ。 土日は、病院は検査を基本的に行わない。 月曜日になったら、ムンテラがあるのかもしれない。たぶん、CRPも高そうだ。 私が、姉の名を挙げて「よろしくって電話で言ってたよ」というと、目が少し開いて「あぁ、」と言う。姉のことのほうがよくわかるようだ。 高熱でもうろうとはしているものの、痴呆が一気に進んだというわけでもないらしい。 救急車の隊員に「遅い時間にご苦労様です」と声をかけて、驚かれたらしい。 丁寧な、温厚な人柄が、最後まで残って、「あのようなおばあさんになりたい」と、母が施設の若い職員さんに言われたそうだ。 また、もうろうとした眠りの世界に入った祖母に「また来るね」と声をかけて、立ち去った。 また、来るね、だなんて。 なんの根拠のない言葉だけれども。なにを言ったらいいのか、私にもわからなかった。 会社を辞めてから、おばあちゃんのマンションの荷物整理の手伝いに数回行ってきた。私はお着物や反物を全部もらってきて、気に入ったものを手元に残し、後は全部オークションで売り払った。 私にとっては、全然よくわからない布を、落札者の人がその価値を教えてくれる。上質な生地なので、こういう用途にこれから使うつもりだ。昔の生地なので、今のものよりも生地幅が無いけれど、背が小さい孫に仕立てる。 初めは転売ということに良心が痛んだけれど、整理屋さんにまとめて持って行かれるよりも、価値をわかる人に次のストーリーを作ってもらえる、その仲介ができているのかな、と思うようになった。そして、産まれてから一度しか着物を着たことのない私も着てみようかな、という気持ちになってきた。 博多織の生地が多いこと、博多帯などから、おばあちゃんが博多の出身だということもわかった。聞きそびれたことがいっぱいあるんだろうな、と今頃思った。 実家の祖父が96歳を筆頭に、実家はみんな長生きだった。 毎年これが最後の桜だ、なんていうことを、もう、20年以上続けて聞いてきた。 みんながだんだん年を取っていくだけだった。だから、人が亡くなるって、想像できていなかった。 できれば、施設に戻ったという知らせを聞いて、安心したい。 それは、もう、難しいかもしれない。 だけど、深夜に電話がなって、受話器を不安いっぱいの気持ちで受け取る。あれ、もう、いやだなぁ。お葬式のしきりとか、火葬場に行くのとか、いやだなぁ。 そんなことをぼんやりと思いながら、帰路についた。 病院は、生きている人の精気まで奪ってしまう。 妙にハイになってしゃべっている母の隣で、黙って、泣きたい気持ちいっぱいでただ座る私を乗せて、バスは哲学堂の脇をゆるやかな弧を描いてカーブし、駅へと向かっていった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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