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今日は私にロシアの劇作家アントン・パーウロビッチ・チェホフ、のことを教えてくれたそのことを書いてみたい。この作家の存在を教えてくれたのは先輩の古本を商いしていた山本信夫さんだった。倉敷駅から古い小路の街並みの中に1間間口の二坪もない古書店があった。いつも酒の匂いを欠かさなかった。現代舞踊の高谷さんが友達で二人で焼き肉を食べながら酒を飲み芸談、文学談議に花を咲かせていた。
山本さん、山さんは県下ではチェホフの作品に非常な造形があり研究家でもあった。一言居士てあった。
戦後の新劇界ではこぞってチェホフを公演していた、チェホフは日本の演劇界の手本であり、復興の寵児でもあった。その頃日本の新劇では三好十郎、村山知義、小山裕士、阿部公房らが新作の華を咲かせていた。私は新劇ではなく新派に属していた。
今回も軽傷を略させていただく。
シエックスピアを専門に懸ける劇団もあった。サルトル、ベケット、ラシーヌ、とにかく何がかかるかわからない乱舞だあった。その中でチェホフの公演はどこかの劇団が常に公演していた。ロシアが敗退して崩れていく、チェーホフは最晩年の作品である戯曲『かもめ』、『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』はどこの現団も公演したはずであった。
チェホフは貧しい家に生まれている。苦学をして医師になるが、その傍らで家族を養わなくてはならず新聞にコントや短文を書き養っていた。当時のものを読んでもこれがチェホフのものなのかは判然としない。ここら辺が井上ひさしと似ている。彼は構成作家から「ひょっこりひょうたん島」書くまでは短文、コントの書き手であった。
チェホフはそれをやめて戯曲を書くようになる。劇作家チェホフの誕生であった。退廃、没落、人間性の喪失。まさに日本の戦後の世相であったことから受け入れられたといえよう。
チェホフの偉大さは彼の持つテーマを崩さなかった。退廃している中の人間を凝視しそこから目を離さなかった。一貫していた。これは書き手としてなかなかできることではない。
だが一見その厳しさとともに哀愁を助け船として書き入れていた。人間はこのどん底にあっても立ち直ることが出来るというあり方の設計図をセリフの裏に隠していた。そうでなくては悲惨さだけを見せられたら観客はたまったものではない。それを計算しつくされていた。小説には数学はいらないが、戯曲は0の概念がなくては書けないものだ。科学者らしい巧みな計算がそこに現れていた。これはシェックスピアとの違いで、寓話な言葉を滔々と語る戯曲と違い、饒舌でない心理的言葉を吐かせている。シェックスピアの芝居を華麗な壮大な芝居というなら、チェホフの芝居は悲惨な現実を見せながら人間の悲哀の向こうを指し示すものだ。
今でもチェホフの戯曲は演じられている。そこに人間が生きている証拠である、それに共感するからだ。
私はチェホフから学んだものは人間という身の置き場は常に崖っぷちかに三歩前に置け、という余裕を教えられた。けっして人間は不幸を背負うときがあるが心の在り方でいくらでも生き方が変えられる、そこで生きる、そのすべを捜せ、「桜の園」では窓からまえる桜の木が切り倒されることに心痛めながら屋敷を去っていくロシア貴族の物語であるが、決して作中人物を殺してはいない、このように生きればというチャレンジも書いている。
チェホフの影響を受けたのは、テネシー・ウイリアム、アーサーミラーがいる。それまでになかった新しい演劇を構築している。彼は4台玉を下記のミー越して結核の為に召された。
それは山さんの生き方、古書にうずもれてはいるがいつか作家になる夢を実現するという夢があるから明日があったのだ…。
難しい夢を見たらしい…。