いつか何処かで…。10
強い雨が大地に突き刺さっている。遠雷が響き渡っている。
今年初めての雷である。
こういう日も私は苦手である。気圧の変化に体がついていけない。
そんな中、幻冬舎から最後のゲラ校が届いた。私は書いたものを直すつもりはない、書いたときの心をそこに置いたのだからそりことを大切にしたいと思っている、今直すとその時の気持ちが消えることになる。
幻冬舎の校正者は丁寧に校正をしてくれている。広辞苑を引き漢字を適切なものに変えてくれている。人物事典をもとにして実名を探し出してくれている。さすが名のある出版社だけの仕事ぶりである。私がその校正に対して同意の〇を入れればいいのだ。すべて〇を入れた。ワードで書いているから変換ミスがかなりある。爾来私は横着者であるので書いた作品は1カ月後に読み返すことにしているから、そこでも手抜きをして書いているとして読んでしまうところがある。
流行作家のゲラ校も見たことがあるがほとんど真っ黒だった。校正者が指摘し、作者がそれをなおして汚すのだ。それに比べれば汚すことはなかったが、作者校正はは得意ではない。先に先に読むから間違いに気づかないのだ。人のゲラ校は校正するときに間違ってはダメだという心があるから十分に時間をかけてやったものだ。
一度来てほしいと言われた。
東京は15年前に月に1-2回会議に出席をしていた。5年間も続いた。往復の新幹線とホテル代は出してくれたのでこちらの腹は痛まなかった。だが、私は窮屈なに事は苦手、たくさんの人に会うのも気恥ずかしいという性分で億劫で仕方がなかった。パーティーは国際的なものが多くいろんな国の人がいたが、言葉など分かるわけもなく、その人たちの大きさにびっくりしたものだ。
飲めないからやたら食べていた。早く追われて祈っていた。
ここで東京に行くとなると15年ぶりの上京になる。「砂漠の燈台」では東京の風景を書き連ねているが、行っていたころから15年間の発展を予想して書いた。舞台を東京にしなくてはならなかったから書いた。たぶん書ききれていないと思う。
体の調子もあまりよくないから返事はしていない。
今夜ゲラ校をするがなるべく早く返したいと思っている。手元に置いておくと気になってしょうがないからだ。
私は小説家ではない、劇作家だったのでこだわりはない、が読んでくれる皆さんのためにも丁寧にやらねばならないと思っている。
作品を書いたものとしてその責任を逃れることは許されない。
雨は小降りになったが稲妻の光が走っている。
出版が決まったときは興奮したが、今は冷静さを取り戻している。
それより、
来年、この中の作品を脚色して公演する準備が行われている…。
無性に舞台がしたくなった。
小説を書くという個人の作業でなく、舞台は何十人との連係プレー、観客と一体になれたときはこれほど体が歓喜することは無い。
役者は舞台に上がると観客の目が突き刺さって切る。その時には何にもまして恍惚とし体が宙に浮く、オルガスムスを味わうのだ。
映画、テレビの女優が舞台をやりたいというのはその喜びを知っているから。
昔は、男より、食事より舞台に上がりたいという女優がたくさんいた、舞台役者が晩婚なのはそのせい。
食欲と性欲をはるかに超えた喜びが体中を駆け巡る。
が、今の役者はなんとその喜びより、ギャラをほしがっている。
今の現状の環境では優れた役者が育つはずがない。
大根役者がいなくなった。と書いたら大根役者ばかりの間違いではないかと思われるかもしれない。が、この大根役者という言葉を間違って認識しておらわれる、大根役者とはオールマイティーな役者のことで煮ても焼いても刺身のつまにもと食べられるという役者のことを言うのです。
東京の劇団は在日ばかり、映画もテレビも在日の演出家、日本の文化的なその世界はもう終わったと言える…。
日本人による文化の継承がなされていない…。