いつか何処かで…。19
倉敷の朝方は涼しいというより寒かった。
私は書き物をしない時にも夜型の人間で5時位就寝する癖がついている。この生活は50年間も続いていて変わることは無い、が、最近とみに3時ごろになると眠くなる。これも歳かと思う。
病との道ずれの生活をしているが、体はだるくても頭が重くても思考力は関係がないのかものを考えることが出来る。
今、作品を書いてはいない。構想を練るという段階である。まあ、これが出来上がると90%は完成したのも同然だ。が、しんどいテーマに取り組んだと後悔している部分がある。
人間の本能と遺伝子、専門的な勉強もしていないから今まで生きて来て知っている人を解剖することになる。そこから生き方の中に本能と遺伝子を見るのだ。
日ごろ、人の顔を見てその人の生き方、ものの考え方を推量し判断をする訓練は積んできた。顔を見れば先祖が見えるというところまで感じるようになれた。これは大変失礼なことで不遜であることは承知している。が、物書きにはそんな部分が不可欠なことなのでお許し願うしかない。
今の科学では平安の末期の待賢門院の月経の周期までわかる。待賢門院とは、白河法皇の寵愛を受け鳥羽帝の女院になられた女性でその頃美貌を謳われ人なのだ。この人の局としては堀河の局がつとに有名である。百人一首にも取り上げられ待賢門院堀河として登場している。西行法師がまだ佐藤義清と名乗りまだ北面の武士として御所の鳥羽帝警備していたころ、歌を習ったのが堀河の局の父親であった。
「心のひだまで読みおる」と言わしめている。その堀河によって待賢門院と知り合うことになる。この二人のことはここには書かない、
待賢門院は崇徳帝と建礼門院を出産しているが後にできた子は不遇で早くなくなっている。
このあたりのことは戯曲「待賢門院堀河」で書いた。西行と女院の間を取り持ったのは堀河と書いた。この件があって西行は出家して、妻子を棄てるのだが、友の早死に心痛めての出家と言う説もある。真意は歴史の中で分からない。女院は疱瘡でなくなっている。西行とは徳大寺家の一門で縁戚関係があった。
また平清盛とは鳥羽帝の北面として同期である。荒法師文覚は白河帝の北面であった。源氏の名前がここでは見られない。このあたりのことはまだつまびやかには語れない。
滝口入道と横笛の悲恋もこの時代である。
まあこのあたりは想像して楽しめばいいということなのだ。
西行法師は南河内の葛城山のふもとの弘川寺で円寂されている。
西行については女性がしなを作り近寄った女性の相手を辞退しなかったという話もある。
また、
「歌を詠むことは仏を作ること」という有名な言葉がある。
私は
「小町歌人六歌仙」を書き小町が政争に巻き込まれて亡くなり、その祟りを恐れて六歌仙に入れたということも書いた。全国に小町塚があるが、それはその祟りを恐れての逸話であろう。
平安京、その下には琵琶湖に相当する地下水が蓄えられている。
また、今の鴨川は京都盆地の真ん中を流れていたが平安京を造設するときに東に運河として流し水神様として時の陰陽師賀茂氏に任せている。賀茂氏こそ陰陽師の開祖である。
京都には隠された歴史がいっぱいに詰まっている。
それを知ることが出来るのは何時か、また、表に出ない方がロマンを醸すか・・・。
京の都には長く行っていないが、昔の面影だけは鮮明に心に落としている…。