いつか何処かで・・・。29
倉敷は30度近く気温が上がった。スッキリと晴れたというのではない。何かむしむしする一日、そんな事あることだろう。
人間の日々が同じではないように…。
人間は常に煩悩に作用されて生きてきた。その煩悩がなかったら人間は成長しなかったともいえる。
「人生のすべての知恵は幼稚園の砂場で拾った」
幼い頃の経験が人生を左右するという例えであろう。今の幼稚園の砂場に落ちているかどうか、それを確かめることできない。が、おちていたらぜひ拾ってほしいという思いはある。
世界で一番に幼稚園を作ったのは、ドイツのフレーベル、教育学者。幼児教育がそのあとの人生に及ぼす影響を考えて幼児教育の重要性を説き、自らも八角園舎の幼稚園を作りそこで幼児の教育をした、それが日本に入ってきたのは明治の中頃か、日本にもその八角園舎が全国に広がり、まだ存続しているところもある。
人間関係、円滑にするすべ、遊びにおいての感性の芽ばえ、知ることの好奇心、許すことの情け、強調して作り上げる達成感、それらを砂場で拾うのだ。教えるのではなく学びながら気づかせるその自立を大切にしていた。
その名残として倉敷にも八角園舎は現存している。今の幼児教育について私には何も言えない。とにかく元気で明るく過ごしてほしいとしか言えない。
私はその教師に取材をしたことがある。
「園児というより親に教えてあげたいことが沢山あります」控えめにそう言っていた。
昔は幼児教育の場なく家庭ですべてが行われていた。これは世襲だったから出来たことだ。
私は常々教育の貧困は幼児教育の問題だと言ってきた。
その声はむなしく響き届くことは無い。子供たちの瞳の輝きを見れば何をほしがっているのかがわからなくてはならない。
今の日本社会がわかっていない、いくら教育を付けてもその家庭が貧しければまず官僚にはなれず、一流の企業には就職は出来ない。どこどこの息子という事が優先されている。その人間の資質などまるで関係なくそれが優先されている。勉強が出来れば大企業に就職が出来高給がもらえ幸せな結婚が出来、家庭が作れるという幻想は捨てるべきだ。大学に通わせている家では母親がコンビニで深夜にパートをしている風景をよく見る。だが、いくら頑張っても金持ちと続いている名家にはかなわないと知るべきである。そんな社会構造がまだまだ残っている。子供の特質を考えて進路を語り合うべきである。
佐藤義清、後の西行法師は徳大寺という公家の血筋で、鳥羽帝の北面の騎士として御所を警護していた。朋輩には平清盛もいた。彼は鳥羽帝の女院の待賢門院に恋をした、同時期友が若く急逝しこの世をはかなんで、紀伊の国、田仲の荘に残した妻子を棄てて出家する。これが西行の生き方であった。生きて何が起こるかわからない、将来を約束されていてもなお別の道へと歩むのが人間というものだ。西行は後に、
「歌を作るという事は仏を作るという事だ」と語っている。月に花をこよなく愛し、南河内の葛城山麓の弘川寺で円寂するまでの彼の生き方を見詰めて思うことはこころに沿った生き方だったと言える。
西行については「花時雨西行」として舞台で公演しているのでここにはこれ以上書かない。
が、人は何かのきっかけですべてを棄てて生き方を変えるものだという事だ。ここで書いておきたい。西行の父は彼が幼少の時になくなっているという事だ。これは西行にとって何を意味するのか、育ちゆく中で父のうしろすがたを見ることが出来なかったという事だ。
これは、釈迦にも言える、このことは皆さんも知っておられるので書かない。
今、必要なのは教育を付ける為にコンビニで深夜パートをすることなのか、人間の本当の姿を見せることではないのか、
私は答えを探している。
人に必要とされる人間になれと姿で心で教えることではないのか。
生き方に差別はない、それを作ってはならない、それを作るのは教育だ。それにこだわっているは親たちである。
夜の11時に塾の前に子供を迎えに来ている親たちの車の列を見る。
「今のままで、そのままで、何も世間に振り回されることがあろうか、自分の人生じゃ、思う様に生きなされ・・・」
良寛に語らせた言葉を付けたしておこう…。