いつか何処かで・・・。32
倉敷は一日中曇り空、つい少し前から雨がちらついている。梅雨であることを実感している。
人間が季節を感じるのは長くて80、普通で70回、いくら桜を見たいと言ってもそれ以上は見られない。その季節の巡りが人間の寿命という事になる。長いようでたいした時間ではない。日にちにして27500日、その間に様々な生き方人生がドラマティクに繰り広げられる。その間どの様に生きてもいい、人様に迷惑をかけるような生き方をすれば法律により裁かれる。また、宗教によっていろいろな戒律が齎され生き方を決められるという事もある。
宗教と法律らによって縛られることは人間にとっては楽な生き方だと言い続けてきた。そのようなものに縛られなくても人間の理性としてそれを行うということが出来なくてはならないという事を言いたかった。
孤独とは一人の時ではなく多くの人の中で初めてそれを実感する。孤独を愛するという事は精神を自由に保つことだ、が、この自由というのが厄介なものですべてが自分の考えで行われるからこれほど難しい生き方はない。人は自由をほしがりながら法律と宗教の戒律を喜んで受け入れている。その方が楽なのだ。
今の世の中、様々な生き方の流行があってその流れの中にいる方がこれも楽という事。まんまと乗せられているのが現代の女性と言える。肉食という言葉に惑わされてセックスをオープンにして積極的になっているのが今の女性社会だ。それについて何も反論の言葉がない。
性欲は男より女性の方が強い、男は誘因性性欲熱で女性によって誘導されて初めてスイッチが入る仕組みになっている。
女性は何か勘違いをしていないか、何を求めて太ももを晒し短いスカートをはいてピップをあらわにし、カップを乗せて胸を強調するのか、それは女性の勘違いというものだ。男たちは目のやり場がなくて困っているという現実を知らない。女性の体験は低年齢化している。男の経験はその逆で高齢化している。そこに不幸がある。正常ではない構図がある。
私はそれを不道徳だという事は言えない。が、メスがオスを選ぶときには強くてたくましく頭のいいオスを本能として選んでいた。それが動物を繁殖させ増やした規範である。人間も昔はその例にもれなかったから人類の今がある。
維新以前には人間は意外と本能で生きていた。性におおらかさというものがあり比較的に自由であった。
江戸時代の職人は2時ころで上がり銭湯に行き汗を流しはて家に帰り家族団らんの後吉原へ繰り出すという生活パターンであった。江戸時代は物価が安定していて、例えば職人の一日の稼ぎで1か月分の家賃が払えたから宵越しの金はいらなかった。安かった原因は便所のくみ取りで家主は稼ぐことが出来ていたというのもある。
「大根一本、小便一回」と言われた時代だ。
おおらかと言えばかかあが産めば誰の子であろうが我が子として育てた。
処女性などには見向きもしなかった。吉原はおろか、銭湯も、飯屋も宿屋の女中も夜になると男と女に代わっていた。
維新の伊藤博文などは遊女を妻にしている。
処女性を問題にしだしたのは維新後の明治政府である。これは戦前まで続いた。
男女の中にはタブーがなくていい。それが世界の風潮であった。
が、過ぎたるは及ばざるがごとし、いま女性に対しての男の反乱が起ころうとしている。男には風俗があるが女性にはないところから不倫が増加の一途をたどっていて離婚が急増している。男は怖くて結婚に躊躇している。
江戸時代には女性が男を買える場所があった。歌舞伎役者である。舞台に投げ銭をする、そこで金額により落札をするという制度があったのだ…。
私は古代に男が女性を求めなくなった時代を知っている…。そんな時代が来るような予感がしている…。
つつましさが最大のエロスなのだという概念をもっているからなのだろうか…。