いつか何処かで・・・。38
倉敷は曇り空・・・。
良く雨女という言葉を聞く、何かの約束や行事の時には必ず雨が降るという事で名づけられた。昔の女性は着物姿で番傘を指していると一つの情緒を見せてくれていた。男の目から見たらみなおしとやかに見えたものだ。
私は雨の日が嫌いではない。気圧の関係で体に変調をきたすが、それでもなお雨の足音は好きだ。いろいろな振り方が心に片輪系くれるように感じる。激しい土砂降りの音にはベートーベンの戦慄を思いおこし、軽快な響きの雨音にはモーツアルトを思いでしていたりしている。
風も、雷も、雪も嫌いではない。自然が差配してくれるものは阿振りがたく受け止めることにしている。自然の中に生まれ自然の中に帰る、自然の営みはすべてが人間にとって、慈愛だと感じている。だからすべてを受け入れる。その方が穏やかに日々を過ごせるからだ。いわば自然という筋書きのない未知の世界を彷徨っているようなものだ。自然に抱かれながら日々の暮らしの中で忘れているのだ。生き物の中で人間だけが自然を都合のいいように作り替えようとしている。それは傲岸でもある。
時はひととき、私の一日は・・・。
夜空け前の四時に起き、お隣の井戸から一番の閼伽水(あかみず)を汲み戴き。それは仏様へのお供えする清浄水になります。手足を清め、朝の勤行・・・。お勤がわりますと、お堂の掃除を丹念に熟し、麦飯を炊き、味噌と漬物で頂き、洗い物を済ませ 、庵をい出て自然のなかへ、立ち木の生きる息吹、健気な草のいのち、鳥の囀り、鳥といえば鳥を私 は羨んだことが御座います。あの翼があれば、雪の塩入峠をいとも容易く跨ぎ良寛さまの囲炉裏端へと。この暫しの散策が私に色々のものを感じ取らせてくれるのです。
良寛さまのように・・・。私にも、生きものと、話すことが出来るようになるのでしょうか。 帰って頼まれ物の仕立てに取り掛かります。大店の奥さまの打掛けから、可愛い娘さんの人生の角での嫁入りの晴れ着、遊女の褥着、ありとあらゆる針仕事が、私を頼りに持ち込まれます。さして得意ではなかった嗜みの針仕事、根を詰めて糸で綾なします。その間は、良寛さまのことを忘れて着る人 の幸せを糸に託して・・・。ひと段落すると、明かり取りの下に転がる手毬のかがりに時を使います、良 寛さまはいつか、 「貞心尼の手毬は飾りも見事なら良く弾む」その世辞とも思える賛嘆を頂きたいと精を注ぎまする。良寛さまと今まで過ごした時の楽しさを思い起し、これからなにをどうと考えていますと、頬はぽかぽかと 、身体の中に温石をい抱いたように火照り、仏に仕える身でありながら不謹慎な事でございます。その 念いが、次には墨と硯の世界へと・・・。
「なあに~何事も自然が一番じゃ、逆ろうことが何であろうかな」
良寛さまの言葉が軽やかに鈴を鳴らすように響きます。
この、何の変わりのない繰り返しが、私の修業、解脱への道程・・・そんな一日はほんの一時。時の流れの速さに繰り言のひとつもと・・・。ですが、雪の季節はむしろ有り難いと念う、人間とはなにかと思いて・・・。深く祈念を仏典の中に求めて彷徨、あれこれと応えのな い思を巡らせ、その一時が御仏に寄り添える時でございますゆえに。
「はちすの露」を公演、その貞心尼のセリフです。
何時の世も繰り返される心の文様、その単純な日々が穏やかな生活なのかもしれない。自然の巡りはこころに波風を作りそれを乗り越えて成長を促す。自然からのいざないである。
自然の営みに支えられながら生きているという実感を持って・・・。
決して地球温暖化でco2 の削減などと言う詭弁の迷わされることなく自然をたたえることが自然への恩返し返しかと…。
私は自然の織りなす変化の中で生きることの至福を感じている…。