明日は今日より素晴らしい・・・。5
倉敷は空に重たい雲がたけ込めていたが、いつの間にか晴れて日差しが厳しくなった。
私にとって今年の夏は今までに経験したことがない日常感がある。年をめぐると昨年のことか言えなくなる。
今年は小学校と高校の同窓会のお誘いがあった。往復はがきを眺めながら同窓の友の息災と幸せを思った。私には鮮明に記憶する思い出がない。宿題は忘れていたというよりしなかったので。廊下に立たされたりバケツを提げて立たされたことを思い出す。思い出すといえば近くの駅舎に聳えていた銀杏の木は今まで生きて忘れたたことがなかった。
その頃に少年のすべてが、野球少年であり映画少年であった。そんな日々の中で、こっそりと銀杏と約束を交わしていた。
「将来、映画の仕事をしたい、物書きになりたい」というものだった。
そのことは「銀杏繁れる木の下で」という作品を書く動機にもなった。その作品は「砂漠の燈台」の中に載せている。その場所を訪れてはいないが心のよりどころとして生きた。
学生時代に暮らした町は昔の面影のかけらもなくなって近代的にビルの町に変わっている。私が見たものではなくもれ聞いたことだ。
東の岡大医学部は変わってしまっているだろう。西の大本教の宗忠神社は昔のたたずまいでそこにあると聞いた。倉敷にいて岡山に行くこともなく、東京へ行くことの方が多かった。
75歳で同窓会を閉じると書いてあった。今の世の中だから半数は残り生きていることだろう。
私はたくさんの人の中に入ることは苦手にしている。
子どものころには茶目っ気があってオチバケばかりしていた。明るい子供だった。その頃の同窓会も秋にあるという。
私は今まで堅気の生き方をしたことがない。遊び人として自由に生きた。みんなの中に入ることを避けてきた。ひたすら銀杏との約束を果たすために生きてきた。
「砂漠の燈台」の後書きでそのことに触れている。
「砂漠の燈台」と「天使の子守唄」「麗老」、これらの作品は六十歳で書く事を辞めていたが、十何年かぶりに書くことになった。書いていて、若い頃の事を思いだしていた。浅草のストリップ小屋の喜劇役者の方々に舞台の面白さを教えられ、新橋演舞場では、新派の北条秀司先生、台本を書いておられた池波正太郎先生に教えていただいたこと、また、岡山県下の多くの文学を志していた人たちとの交流、原稿を読み雑誌を発行し全国に配ったこと、特に『新日本文学賞』を受賞したが断らせた大江壮さん、「女流文学賞」をとりながら作家にならずに日本舞踊の流派を作った梅内女史の事は心に残っている。小説を書いていた私を倉敷で演劇の世界に引っ張り込んでくれた倉敷演劇研究会の土倉一馬さん、とその仲間たちから沢山の思い出を頂いた事。未熟な台本を公演してくれた事。また、私の作品で岡山県代表として日本青年大会に四度も出場し数々の賞に輝いたこと、それは倉敷の青年たちの熱意ある功績として、また、それを率いた土倉一馬さんのお手柄であること。そこで学んだものが貴重な歴史のページである。それらは走馬灯のように心の中で再現されていた。若かったころの夢物語である。
後に日本一の演出家、鈴木忠志さんにも手を差し伸べていただき、全国の演劇人たちと「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」を立ち上げる一役を担い、鈴木メソッド演劇の真髄を魅せられた。鈴木さんの温情は忘れてはいない。日本劇作家協会に不満があり辞めたこと。映画の世界では表現社の篠田正浩監督、鯉渕優さん、永井正夫さんらのプロデューサー、岩下志麻さん他たくんさんの俳優さんと何作も仕事が出来たことも記憶を新たにした。それらの人との関わりで多くの思い出を貰った。そんなことを考えていたら書き上がっていた。子供たちと青年たちに支えられながら劇団滑稽座は存在した。七十二回も公演が出来たのも彼らが私を支え学ばしてくれたおかげである、子供達も育ち青年たちも成長していった。それも心に残る残照がある。私の我儘といたらなさのために傷を与えていたとしたらお詫びをするしかない。
「砂漠の燈台」は文明と自然の再生を追いながら人間の務めと幸せについて書こうとしていた。幸せ、それは人さまざまな形でそこにある。その中の一つの姿をとらえられていたらと思う。作中小説として「銀杏繁れる木の下で」を入れた。この作品は銀杏と言う自然の総体に対して人間の心の動きを追ってみた。私は無神論者で運命論者ではないが、何か不思議なものに導かれていると感じている。草稿は二・三日で書きあげた。六十歳までがむしゃらに走り抜けたが、年を経て気づくことが多い。後悔はない、私の心のままに生きてきた。夢を実現するためにいばらの道を、ぬかるんだ道を、多少の中傷も、試練として受け止めただ前に歩いた。これはすべての人が歩んだ道だろう。名利名聞には関心がなかった。ただ歩いた。人の評価に対しては反省の材料にしたが心には遺さなかった。
それだけになまいきだと叱咤されたかも知れない、それも私は前に進む材料としていた。
私は常々ありがとうという意味で言葉を書いた。
「人の世の哀しみにも華を咲かせ、人の世の悲しみにもたわわに実をつけよ」
「人には大切な種が心にある、それを育てるためには夢という肥やしがいる」
「この娑婆には、悲しい事、辛いこと、が、一杯にある、わすれるこった、日が暮れて、明日になれば…」
これらの言葉に幾度助けてもらったことか。
今思えば沢山の人に応援をしてもらった、沢山の人に出会えた。その人達とめぐり合えたことで何百という作品が生まれた。出会いに感謝している。
日本を代表する沢山の名のある人達から温かいまなざしと言葉を沢山頂いた、また、人とは何かを学ばせて頂いたが、その人たちに返す事はしなかった、私が生きていて出会った人達にその人たちの想いを伝えることでお許しを願うしかないと思って接した。この作品を手を差し伸べてくださった人達と支えてくれた人達、私と出会った総ての人達に捧げたい。不遜であるが…感謝をこめて…。
七十五歳 吉 馴 悠