テーマ:愛しき人へ(903)
カテゴリ:思うこと
15年前の話をします。 毎年、この時期には同じ写真を紹介してきました。 去年まではここ以外のブログに書いていましたので、ここでは初めてです。
当時、大阪の北摂に住んでいました。 1月17日 AM5:46 ベッドで寝ていましたが、地下から大きな岩で突き上げられたような衝撃を受けました。 「ゴォーッ!!」 と音がしたと思います。
そのあと、ベッドから突き上げられて一瞬宙に浮いた気がしました。 枕元に本棚があったので頭に色々なモノが落ちてきました。
今まで経験したことがない衝撃で何も出来ずに揺れが治まるのを待つだけでした。 ものすごい揺れのあとに静寂が訪れて、外を見たのですが何も変化がないように見えました。テレビを付けましたがまだ番組が始まっていない局も多く、何も報道されていなかったと記憶しています。東京の番組が流れていたのだと思います。
一応電話がつながっていたので実家(東京)に電話を入れて母に報告をしましたが、ピンと来ないらしくすぐに電話を切られました。その後すぐに電話は何日も不通になりました。当時は携帯電話も普及しておらず、当然個人で持つ人はほとんどいない時代です。 また「インターネット」も今とは全然違って、知られていませんでした。 電話が局所的に不通になり、通信手段が無い状態で連絡を取ることも出来ず、情報が錯綜した状態では色々なデマが流れるのです。
当時のマスメディアはラジオが有効でした。 電車が止まり、駅で立ち往生していたのですが、近所の喫茶店に入りラジオの放送を聞いていました。刻々と被害状況が判ってきました。
どうやら地震は神戸で起きたものだと・・・ ラジオから 「阪神高速道路が落ちました・・・」
えっ?! 高速道路が落ちる?
意味がわかりませんでした。高速道路から何かが落下したのかと・・・ 実際は高速道路自体が崩れ落ちていたのです。
そんなことが判ったのも翌日でした。 テレビを見て愕然としました。
当時、神戸市東灘区の御影に彼女が住んでいました。 一人暮らしのアパートに住んでいました。 でも連絡をする術がありません。 電車も止まっていました。 車も緊急車両以外は通れません。
きっと大丈夫だと思うしかなかったと思います。 どこかで元気にしていると・・・
やっと阪神の青木(おうぎ)駅までピストンで繋がった際に災害支援のために神戸支店まで歩いていくことになりました。バスを3時間も待つなら歩いた方が早いからです。途中に彼女の家があります。しかし彼女のアパートはなくなっていました。 どこに行ってしまったのか・・・ 実家(鳥取)に帰ったのか。 喧嘩ばかりしていたので、機嫌を損ねて出てきてくれないのか・・・
お互いの実家までは知らなかったので連絡の手段もなく、彼女の消息を知ったのは4月になってからでした。
会社の同僚が彼女の妹を知っていたので、話を聞くことが出来ました。 帰らぬ人になっていました。 何故か信じられなくて、受け入れられなくて、この事は10年間は自分の中にしまい込みました。5年前からブログで書くようになって、今年もまたあの日が来ました。
6000人もの尊い命がなくなり、多くの人が大切な財産を失いました。 大阪や京都の社員は神戸の社員を支援すべく、神戸市内の状況調査に回りました。 そのとき、スーパーカブで回った永田の写真が以下の写真です。 私自身が撮ったパノラマ写真です。360°焼け野原でした。
その永田も今や復興して当時の面影もありません。 心なしか歩道が広くなり、災害に強い街並みに変わった気がします。
今でもこの時期が来ると心が痛みます。 その15年の節目にまた関西に戻ってきたことを考えると、これも何かの縁かと思います。またあのときの想いを胸に一生懸命生きていきたいですね。
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