さかのぼり日本史 (2)昭和 とめられなかった戦争
『NHKさかのぼり日本史 (2)昭和 とめられなかった戦争』加藤陽子 NHK出版 を読みました。 第一章が「敗戦への道」。この章での加藤さんの問題設定は、「1945年(昭和20年)8月の敗戦以前の時点において、戦争を終結させなければならないと日本側が判断を下すべき機会があったとすれば、敗戦のほぼ一年前、サイパン失陥の時点だった、このときに戦争は終わらせるべきだったと考えています。この機会を逸したことで、日本はより悲惨な戦いを強いられ、敗北を重ね、被害を一挙に増大させていくことになったからです」というものです。 かなり以前になりますが、太平洋戦争を教えるための教材の一つとして、私が住んでいた明石市西部の町の遺族会の方にお願いをして戦死者名簿をお借りし、誰が何年何月何日にどこで亡くなったのかをパソコンに打ち込んで整理してみたことがあります。1945年に入ってからの戦死者の数はまさにうなぎ上りであり、「いったい何があったのか?」という疑問につながります。プリントして配布しました。 この時史料として同時にプリントしたのは、『太平洋戦争の歴史』黒羽清隆 講談社現代新書(現・講談社学術文庫)です。 「そして、やがて、このマリアナ基地群に、おそるべき『空の殺し屋』超大型空の要塞・ボーイングB29がやってきた。(第一陣到着は、10月12,13日ごろという) 昭和19年9月の大本営の掌握データについてみるに、爆弾4,54トンと燃料18トンをつんでとんだばあい、巡航高度・7630mで行動半径・2640キロとなり、東京・マリアナ諸島間・約2500キロに適合的となる(益井康一「超空の要塞B29」1971年) しかも時速500キロ(零戦が550キロ)で1万メートル上空を飛び(アメリカ陸軍省公表)、日本軍のデータでは、高度9500メートルで最大速度580キロとみなされた。また武装は、20ミリ機関砲6門(弾数各300発、「零戦」は20ミリ機銃二挺)と12,7ミリ機関砲16門(弾数各500発 「零戦」は7,7ミリ機銃二挺)、というもので、要するに、はるかに軽い「零戦」と同じ攻撃能力を持った「空の要塞」だったのである」 加藤さんの本では、サイパン島の激戦の様子、そしてマリアナ沖海戦の両方が描かれます。 日本は完敗。そして、サイパン増援計画は中止、「制空権・制海権を握られて救援も来ないとなったら、4万4千人の大部隊も孤島の守備隊と同じで、米軍の火力と物量の前に消耗を重ねていくしかないのです」 「絶対国防圏」は崩壊し、本土空襲が始まり、太平洋の島々に点在していた日本軍の将兵、民間人たちは見捨てられます。そして、降伏の権限は与えられませんでした。 『レイテ戦記』で大岡昇平は記しています。 「近代の戦争は、職業的に訓練された軍事力によらずには行われない。歩兵についていえば、それは開けた第一線において弾雨を冒しての突撃、陣地死守ができねばならない。これは組織された教育と、国家に身命を捧げた職業軍人の存在を前提とする。しかし一般国民にこれを課するのは治者として残酷であり、不仁である。国民は国家の利益の外に、おのおの個人的家族的な幸福追求の権利を持っている。従って軍が徴募兵に戦いを続けさせる条件の維持に失敗した場合、降伏を命令しなければならない。そのため諸国は、互いに俘虜に自軍の補給部隊と同じ給与をあたえ、あとで決済する国際協定を結んでいるのである。しかし旧日本陸軍はこの国際協定の存在を国民に知らさず、『生きて虜囚の辱めを受けず』と教えて、自決をすすめた。本土決戦のような夢物語のために、国民の犠牲を強要するのは罪悪である。国民に死を命じておきながら、一勝和平の救済手段を考えるのは醜悪である」『レイテ戦記』中公文庫 下p290 職業軍人、特に階級が上の連中が「国家に身命を捧げ」なかった例を私たちは忘れてしまったのでしょうか。「戦争」という命のやり取りの場においては、本来は認識そのものがリアルさに徹底することが求められます。ところが、参謀クラスの無能さ、現実認識の喪失、「こうあってほしい」という期待と現実との取り違えを加藤さんは一つ一つ指摘していきます。 読んでいて「そういえば」と連想したことがあります。NHKで放映している将棋の対戦ののちに行われる解説です。プロでも「失着」というものはあります。それが少ないほうが勝利するという展開もあります。また、「敗着」という手もあります。負けに直接つながる悪手です。 サイパン失陥の段階で、将棋で言えば、飛車も失い、角もとられ、玉の周りには香車と桂馬しかいないという状態だったと言えるのではないでしょうか。 しかしそれでも戦争を継続した。そして、「まともではない作戦」、特攻などの「初めから生還を期すことのない攻撃作戦」が下命されます。 特攻によって命を散らせた若者を悼む気持ちは私にはあります。しかしそれ以上に強いのは、当事者によって「作戦の外道」と呼ばれた作戦を下命した指導者層の無責任、無能力、卑怯さに対する怒りです。指導者層の無能ぶりに対する記述は最小限、特攻に命を散らせた若者たちに対する共感を強要する本がベストセラーになり、映画化される時代に私たちは生きています。健忘症の極みです。 加藤さんは、東条について「権力主義、強硬な戦争遂行論、偏狭な精神主義」と評しています。自殺に失敗するという失態を演じ、のちに絞首されたこの男を「昭和殉難者」として祀る神社に国会議員がゾロゾロ参拝する。これを醜態と私は思います。 第二章「日米開戦」、第三章「日中戦争」、第四章「満州事変 暴走の原点」と「さかのぼって」行く歴史。さらに第一次大戦、日露、日清と見ていくと、やはり大岡が『レイテ戦記』に記した以下の言葉が具体的な像として浮かんできます。 「歴史から教訓をくみ取らねば、我々は永遠にリモン峠の段階にとどまっていることになる。ただしこれは必ずしも旧日本軍の体質の問題だけではなく、明治以来背伸びして近代的植民地争奪に仲間入りした日本全体の政治的経済的条件の結果であった。レイテ沖海戦におけると同じく、ここにも日本の歴史全体が動いていた。リモン峠で戦った第一師団の歩兵は、栗田艦隊の水兵と同じく、日本の歴史全体と戦っていたのである」中巻p218 次は、『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)を再読します。傍線を引き、書き込みをしながら味読したいと思っています。