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カテゴリ:戦国 上杉氏(長尾家)
とある日曜日の朝5時目覚め、唐突に米沢へ日帰りでいってこようと思い立ち、眠い目をこすりながら、身支度を整えつつ5時50分出発、東京駅へ、6時15分到着、東京弁当を買い込みつつ6時28分発の山形新幹線に乗り込み、いきなりお弁当を食べ始める^^;(東京弁当は、東京の名物を詰め込んだお弁当、1600円なり)食後よく眠っていたら福島駅到着していた。その後は山の中・単線で急勾配の坂道を登っていく。ここの場所はもともとスイッチバック方式でジグザグに山を登るように線路が敷かれていたそうですが、今は電車の性能がよくなったので、そのまま登れるストレート形式になったそうですね。午前10時32分、米沢駅着。
ほとんど下調べをしないできてしまったので、米沢駅構内の観光案内所を覗く。新しくできたと思われるそのコーナーにお姉さんがポツリ。熊「すいませーん、バスとかで上杉神社にいきたいんですけどー」おねえさん「あー、バスは本数すくないですよー、一時間に一本ぐらいですかねえ、、、歩くと結構かかりますよ^^;」と親切に対応していただきました。時刻表と観光マップを入手、回る順を決めて時間も早いので歩いていくことに。まずは、上杉家御廟所へ、てくてく40分ほどあるく。上杉家御廟所へわりと頻繁に観光バスが前にきては、すぐにさっていく^^; 上杉家御廟所の前に上杉家御位牌、そして川中島の善光寺にあった善光寺如来を安置している法音寺が左手にある。なんでも、川中島の合戦による戦災を避けるために信濃善光寺如来三尊・汁器を春日山に1554年安置。その後上杉家移封にともない米沢へ移築、昭和の初期に同寺に上杉家から寄贈されたそうです。善光寺にかぎらず、このあとでてくる春日山神社・春日山林泉寺や毘沙門天様まで、すべて移築して米沢に移ってきたようです。そこのたて看板をみていると「上杉が出陣するとき、武てい式という戦勝祈願の儀式があり、毘沙門天堂前に将兵が勢ぞろいして「毘沙門天の旗じるし われに勝利をたれたまえ のろしは上る春日山 」とのたまわれたそうですね。 そして、上杉家御廟所へ(リンク参照)。うっそうとした杉林の中真正面に謙信の御廟が大きくあり、左右に代々の藩主の御廟があり、左が偶数代、右が奇数代の12代藩主まで、祭られていました。ということで、左側に2代藩主景勝公、10代藩主鷹山(ようざん)公が祭られていました。そして、謙信公の御廟へ。個人的にもっとも好きな戦国大名と明言してはばからない熊ですが、静寂した杉林の中で堂々と祭られた謙信公の御廟をみてしばし感動しつつ、お参りしてきました。 謙信公のお墓は、2代目景勝公が米沢移封の際、米沢城内東南の地にあり、事あるごとにその前で儀式が行われていたそうですが、明治9年米沢城取り壊しの際、現在の場所に移されたそうです。(他の藩主のお墓はもともとそこに祭られていましたが)このあと、上杉神社のある松が岬公園へ移動。 その途中にとっても大きな看板が、、、刀八毘沙門天王と赤地に白字で書かれていました。この毘沙門天様も先ほど書いたように景勝公米沢移封の際米沢へいらしたようです。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年06月04日 03時26分05秒
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