|
カテゴリ:戦国 上杉氏(長尾家)
なんだか、日帰り旅行だったのに、異常に長尺日記になってきましたが、こんなにいっぱいいろいろつまったものになるとは思いませんでしたよ、ほんとに。んま、上杉謙信公が好きだから何でもきになっちゃうってのはあるんでしょうが。ちなみに、上杉の家紋はもともと長尾家時代「九曜巴」という巴を9つ並べたものでしたが、上杉家を謙信公が継承することになり、上杉家の「竹に雀」を継承したそうです。さらにこの家紋は上杉家から伊達家に贈与されたようですが他家との大きな違いは「あうん形」といって家紋の左右の雀のうち、右の雀が口をあけています。そして、これと関連して?上杉神社の狛犬さんもやっぱり右側のほうが口をあけてたりします。どれみてもそうなんですよね^^。
というわけで、続きです。上杉神社には、本社の南側にさらに春日神社があります。小高い山の上に小さい社があるんですが、これも、先日お話したように景勝公米沢移転の際に、越後→会津→米沢とやってきたそうですね。春日神社は「いまから1040年ほど前、越後の国司として派遣された藤原達成が上越の春日山頂に奈良の春日大社を分霊し、領内の平和を祈願した」そうです。本拠を春日山にもつ上杉家は春日神社を守り神とし、このようになったようですね。こちらもおまいりしたあと、境内をぶらぶら。謙信公・鷹山公の銅像に混じって伊達政宗の誕生の地のたて看板も^^。さらに、東南の小高い山を登ると、石碑が2つ。ひとつはもともと上杉謙信公の御堂(お墓)の後を示す石碑です。 上杉公のお墓もやはり、越後から米沢に引越してきて、米沢城の東南に祭られ、その左右に善光寺如来と、毘沙門天像を奉置し、そして、歴代の藩主の位牌も祭られたそうです。そして、謙信公の命日には毎年藩主が参拝する慣わしであったそうです。また、10代目鷹山公のときは降雨の祈願として、3日間断食してここにこもったそうです。 また、その横には鎮魂碑が。明治維新の戦いでなくなられた方と太平洋戦争でなくなられた方が祭られているそうです。 ということで、今日もとっても長くなってしまいましたが、まだまだ続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年06月06日 05時35分30秒
コメント(0) | コメントを書く
[戦国 上杉氏(長尾家)] カテゴリの最新記事
|