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カテゴリ:戦国 上杉氏(長尾家)
5日目になってもなかなか先に進まない熊日記です^^;
ちなみに、上杉鷹山公ですが、日本でその存在を認知されたといわれる出来事がありました。1961年アメリカ36代大統領に就任したケネディが、日本の記者の質問に「もっとも尊敬すべき日本人は上杉鷹山である」と答えたそうです。このことが、日本で報道され多くの日本人に認知されるきっかけとなりました。 あと、前回ちょっと話のでた藩校に招聘された鷹山公の師匠とは細川平洲さんで、鷹山公が江戸にいた時代、両国橋のほとりで青空講義をしていた細川さんを鷹山公の侍医藁科松伯公が直接細川さんのお宅に伺いいたく感激した松伯公は即細川さんの開いている桜鳴館という家塾に入門、鷹山公の師として推薦されたそうです。 そこで鷹山公は藩主として藩民の手本になるよう、正直質朴で有為な家臣を取り立て老人を敬い、婦人をあわれみ、善行をほめたたえるよう、そして聖賢の教えをただまなぶだけでなく自分のものとして実践をいかすよう徳をもって政治にのぞむように教えられたそうです。そして、形式にとらわれた無駄を省き倹約を守るように教えられ鷹山公の藩政にいかされたようです。 ということで、常設展をあとにした熊はさきほどのもぎりのお姉さんの前にいくと、「特別展は右からどうぞ」とまたもぎり^^ 正面には、上杉謙信公が武てい式のときに祭られた携帯用の仏具8種が飾られており、右回りに書物や屏風が展示。 最初は国宝といわれる上杉家公文書が大量に展示@@; まずは14代将軍足利義輝の御内書がずらり、、、 ○書状の封紙の書き方で一般的には表に宛名と自分の名前、裏に苗字と官途をかくのが普通だそうですが、裏書省略してよいというもので、これは将軍補佐の3管領(細川、斯波、畠山)のみに許された特権をみとめられたというもの ○足利義輝将軍と会見したさい、謙信公の「越後国を失っても将軍のために忠節を尽くす」といったことにいたく感激しこれからもよろしくというもの 織田信長とのやりとりも、、、 ○養子をだすので同盟をむすんでくれというもの、、、足利義昭による信長包囲網に対する対武田牽制の目的と思われる。 ○若い鷹をくれてありがとう、大事にします、、、謙信公から若い鷹をもらったことに対する感謝状。 謙信公の祈願文として ○加賀や一向一揆衆の蜂起にたいし、蜂起をとどめ、民衆の安心した生活をいのる文、、ここに前々回説明した、祈願文にそえられた弁財天の朱印が押されています 足利義昭からも、、、 ○一向一揆衆と和睦、合流して織田信長包囲網に参加するよううながすもの また、謙信公の感想文?として ○織田軍はたいしたことはなかった、これなら上洛できそうだというもの。 以上、当時の世相・外交をしのばせる文書が多数展示されていました。 ということで、そろそろお時間がなくなりましたので、今日はこれまで、続きはまた明日^^;;すいませんm(--)m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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