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カテゴリ:戦国 上杉氏(長尾家)
午後1時は回ったものの、日帰りを考えている熊は、観光優先、歩き回りました^^;次の目的地春日山林泉寺はけっこうはなれてる(やく3キロぐらいか?)ので、バスか、タクシーをさがそうと、うろうろと、目的地に向かいつつさがすと、バス停を発見、みると、1時間後に1本が^^;その次は3時間後である@@;
帰りにバスに乗ろうと、がんばって歩くことに、、、ってさっき大量に資料買ってるので、ちょっと疲れてるのであります><; 途中、山形大学工学部のキャンパスを横目にあるきつつ、さらに横をちらちらみてると、明治時代風の公舎を構内に発見@@、これ、手元の資料をちょっとみていると、元山形高等工業学校の本館の建物で、明治43年3月にたてられたルネサンス様式のたてもので、当時工業技術の輸入・移植で質的、量的な技術革新が求められて全国で8つの工業専門学校が設置され、その7番目の高等工業学校として立てられたものらしい。しばらく見ていてもだ~れもみにこない寂れた建物なっちゃってるようですが、時代と重みを感じるものであるとともに、米沢という土地の重要性を示す大事な建物だなあと、思いました。 その先を少し行くと春日山林泉寺の看板を発見、大汗かきながら入る。 入ったすぐのところの墓地の入り口にポストがおもむろにたっており、「拝観時100円いれて下のパンフレットをおとりください」とかいてあり、パンフレット取り放題?状態でしたが、大人気ないなあとおもいつつ一枚とって敷地に入る、、、と、右側に大きなテントを張った中におじさんがひとりぽつんと、山形のお土産玩具として、上杉鷹山公が開発奨励した「笹野一刀彫」を大量に展示即売しているようだ、、、ったけど、こんなに人いなくて大丈夫?と、おもってると突然話しかけられる、、、「その観音様は足が悪い人が足をさわるとよくなりますよー」と声をかけられたんですけど、、、うーん、すでに2万歩あるいている人にそういわれてもねえ、、、観音様を拝みつつ、最初に歴代の住職合祀?した石碑がひっそりとたてられ、その中に、上杉謙信の教育をしたといわれる天室光育さんの名前が。第6代住職で謙信公7歳のときから7年間徹底的に教育を施したかたで、それまで腕白放題の幼い謙信公を思慮深く、信心深い武将に育てあげ、また武道も鍛えられたようです。 そして、上杉家にかかわられた夫人たちの墓地へ、、、 菊姫の墓が、、、2代目景勝公の夫人にして武田信玄の5女。最大のライバルであった武田家と上杉家の間に何があったのか、、、 武田信玄がなくなるときに武田勝頼に遺言されたこととは、信玄亡き後、もっとも頼れる男は上杉謙信だけだ、危機に陥ったら彼にたよれといったといわれます。 敵に回せば恐ろしい男、上杉謙信公も義理堅いところ・仁侠の人であることは、宿敵・武田信玄公にも長年のいろんな交流を含めて十分認知されたんだろうなあとおもうエピソードだと思いますが。しかし、その上杉謙信公もまもなく脳出血で倒れなくなってしまいます。ところが、謙信公は信仰に厚すぎた?せいか子供がおらず、世継ぎをめぐって御館の乱が発生します。 一人は、さきほどから名前がでてる景勝公で、上杉謙信公の姉仙桃院の嫁いだ長尾政景の長男で、政景の水死という事故死(これもまたいろいろといわれていることですが^^;)したあと、謙信公が養子として春日山城で育てられています。 もう一人は、北条家からの養子で、休戦・同盟を提案された際にやはり養子として迎えられたのが北条氏康の6男として産まれた景虎公です。実は景勝公の妹を嫁に向かえ、上杉家に入ってきた景虎公も大事にはされていたのですが、、、 上記のように脳出血で突然亡くなってしまったため、世継ぎが決まっていない問題が浮上御館の乱となるわけですが、、、ここで、上杉家の女性の方々が非常に激しく動き回るのですが、、、ということで、日記がかなりながくなってしまったので、日を変えて書き込みします^^;待て次回ということで^^; お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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