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2006年09月14日
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カテゴリ:戦国 島津家
先日は久々の書き込みながら、大勢の方にいらっしゃっていただきましてありがとうございます。
まだまだ、忙しい日々が続いているので、コンスタントに続く確信がないのですがまたよろしくお願いします。

で、前回の続きです。
ふるさと維新館の続きで、解説員の話のところです。
「この中央のシアターの前に、模型があり、たてぎと呼ばれるまきを束ねたものを横に台のうえにのせ、みな丹田(おへそ)に渾身の力を込めて、地軸の底をたたき切るように振り下ろす練習をするわけなのですが、この練習をおこなうのは野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)というジゲン流剣法の練習風景です。
みなさんは、ご存知でしょうか?ジゲン流には実は2つあるのです。
よく小説などで「チェストー!」という掛け声とともに振り下ろす剣法も野太刀自顕流です。
だだし、小説ではよく混同され、よく紹介されているものは、示現流(じげんりゅう)としてですが、こちらは、このような掛け声はかけません。
名前がにて混同しやすいのですが、違う剣法です。
なぜ、このような名前も似通った混同した2つの流派が存在したのか、その歴史について述べます。
じつは、野太刀自顕流の方が歴史は古く、約1000年前伴兼行(とものかねゆき)が始祖とされ、当初は野太刀流(のだち)といい、伴兼行さんは、968年に薩摩国鹿児島郡神食村(かみしきむら)に総追捕使(そうついぶし)に着任、その後ひ孫の兼貞(かねさだ)が弁済使(べんざいし)として、大隈国肝付郡(きもつけ)に移住、肝付氏を名乗るようになる。その数代あとの肝付氏の子孫の弟が薬丸姓(やくまる)を名乗り、曽於郡大崎の城主となり、本家肝付氏をささえつつ、野太刀流を伝えていくことになるので、薬丸流ともいうようになる。
じつは、この肝付氏は、薩摩の島津家とは400年にわたるライバル関係になるので、実は薩摩の敵国の剣法なのです。このライバル関係がおわるのは、(前回お話したときに出てきた、)島津忠良公の子貴久(たかひさ)の時であり、島津家は、いろは歌にあるように、決して敵国の者は冷遇はしないので、この肝付氏・薬丸家も島津家の家来となります。このときの薬丸家は、壱岐守(いきのかみ)といい、関が原の合戦で、島津義弘公の敵中突破・帰国の際、伊賀上野城(いがこうずけじょう)にて、敵をきりさき、大活躍をしているという、因果があるようです。

これに対し、示現流は、東郷藤兵衛(とうべえ)肥前守(ひぜんのかみ)重位(ちゅうい)が祖先で、もともとタイ捨(しゃ)流の使い手も、御膳試合でやぶれ、限界を感じ、1587年、島津貴久の長男義久公に従い上洛した際、曹洞宗天寧寺(てんねいじ)の善吉和尚に出会い、常陸(いまの茨城県)の國の神道流の分派の剣法「天真正自顕流」を学び、1604年ふたたび、御膳試合をおこない、タイ捨流の相手を圧倒し、薩摩藩初代藩主家久(義久公の弟義弘公の長男)の師範となる。ここにおいて、家久公は、名前をつけなおすこととし、家来の、大竜寺の文之(ぶんし)和尚に、考案させ、法華経の経文中の「示現神通力」より、示現流となりました。そして、上級武士の間で普及することとなりました。
と、いうところなのであるが、ここから、混同するようになるのは、この示現流に、薬丸壱岐守の孫の兼陳が入門することです。これは、東郷さんが、初陣を飾った際、薬丸壱岐守の助けがあったといい、孫を鍛えるため入門させたのですが、実際、5高弟の一人となり活躍、その後も、6代あとの兼富(かねとみ)まで示現流できたえますが、その傍ら、野太刀流をきたえていました。ところが、その子兼武は、示現流の門下生にはならず、野太刀流をきわめ、あらたに道場を開き、道場破りをつぎつぎやぶり、ここにいたり、剣法を改名、野太刀自顕流と名乗るようになります。
しかし、これが、島津家や、示現流一門の反感を買い、島流しにあいますが、下級武士・郷士の間で、広まるようになります。そのご、許され、鹿児島に帰った後さらに広がるのです」

といったわけで、いろいろとこみいったわけありの2つの剣法なのでした。
次は、薬丸自顕流と歴史とのかかわりについての話が続きます。





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最終更新日  2006年09月15日 00時02分18秒
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