鹿児島旅行記その21
前回の続きを書きにきました、くまです。ほんとに大勢の方にいらしていただきありがとうございます。ということで、ジゲン流の続きです。前回の話を後で読んでて思ったことですが、ジゲン流ってどんな剣法かってちょっとわからないよなあとおもったので、先に補足します。基本的には、初太刀(しょだち)といって、最初の一撃を頭から全力で渾身の力を込めて振り下ろす剣法で、一撃はずしたらあとがないともいえます。ただし、その一撃たるやすさまじい威力で、鎧を着た武士が真っ二つどころか、粉々にぐしゃっとつぶされた残骸のように残るらしいのです。あの、新撰組でも、薩摩のジゲン流の初太刀にはきをつけろといわしめた剣法です。ジゲン流の極意が2つともほぼ同じで、1.刀は抜くべからざるもの1.一の太刀を疑わず、二の太刀は負け1.刀は破るものにて、自己の防具にあらず1.人に隠れて稽古するだそうです。1つめと3つ目に付いては、その精神が刀にも反映していて、刀には、簡単に抜けないようにとめ具があったり、相手の刀をうけ、つばぜり合いをする鍔(つば)が、非常に小さく、手がとってから刀に滑らないようにしてるだけになっているそうです。2つめは先に行ったとおり、4つ目に付いては、人のためでなく自分のためにやれという意味も有るようですね。と、いう感じで、イメージがつかめたでしょうか?で、本日の話は、野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)と歴史についてでした。「みなさん、安政の大獄・桜田門外の変については、ご存知かと思うんですが、当時の大老井伊直弼の首を切ったのは、実はもと薩摩の侍で、自顕流の使い手だったのです。歴史の教科書では、水戸藩の浪人におそわれたとあるとおもうんですが、井伊直弼の弾圧をこころよく思わない、薩摩藩・江戸留守居役の有馬雄助・次左兵衛の兄弟は脱藩を図り、この水戸浪士たちと合流、1860年、桜田門外にて、午前9時出勤する頃をねらい襲撃、井伊がのった籠を2回水戸浪士がきりつけたあと、有馬次左兵衛が、井伊大老を籠から引きずり出し、一刀の元に首をはね、剣先に首をさして、遠藤但馬守の辻番所へ向かったが、そのはいごから切り付けられ、動けなくなるも、水戸浪士の助太刀にて助けられ、切腹して果てたそうです。辞世の句は岩がねもくだかざらめやもののふが 国の為にと思い切る太刀だそうです。。。有名な事件、そのほかには、生麦事件ですね。当時開国でゆれていたときの薩摩藩主・島津久光公が、江戸に向かう途中の生麦にてイギリスの商人リチャードソンら4人が、大名行列を横切ったため、この先頭にいた奈良原喜左衛門が、即座に一人を切りつけ、それでも、内臓をもらしながら馬で逃げるイギリス人たちを八百メートル近く追っかけて、切り捨てたそうです。これが、のちに薩英戦争につながるわけですね。もちろん、西南戦争のときも、薩摩の武士たちは、自顕流で戦ったわけですが、接近戦では、まったくの無敵状態で、政府の一般兵はまったく接近戦では太刀打ちできず、形にならない死体が大量にころがったそうです。薩摩の武士たちも銃でうたれても突撃し、みな前のめりで死んでいったそうです。」このほかにも、薩摩藩の武士どうしが切りあった寺田屋事件などが有名です。また、幕末の剣豪では、西郷隆盛の護衛の大山綱良などが自顕流の使い手でした。そんなわけで、幕末にはジゲン流が日本を席巻する時代となったのでした。というわけで、次回は、西郷隆盛?さんの話の予定です。