悲劇の志士・相楽総三と高台寺党の生き残り
維新志士でありながら明治政府によって汚名を着せれられ、赤報隊・隊長の相楽総三は処刑された。 これが「ニセ官軍事件」だ。 油少路で難を逃れた高台寺党の三木三郎(伊東甲子太郎実弟)や篠原泰之進らは、相楽総三率いる赤報隊に参加している。 ニセ官軍事件 攘夷運動に関わっていた相楽総三は、江戸治安を乱す部隊の隊長に任命される。暴動は成功し鳥羽伏見の戦いのきっかけとなる。 その功績が認めらた相楽は京都に呼ばれ、西郷から赤報隊への参加を命じられる。 この時、維新側は相楽の進言した「年貢半減令」を採用しており、明治元年1月29日赤報隊はその宣伝をしながら江戸に向かって出発した。 しかし、赤報隊が出発して10日もたたない内に、事態は急変。維新側に軍資金を貸していた商人達が、返済を年貢米で返すように求めたのだ。 そうなると維新側にとって年貢半減令は邪魔でしかない。加えて維新側の勢力争いもあり、年貢半減令を掲げる赤報隊は次第に目障りなものになっていった。 こうした背景で、同年2月10日、赤報隊をニセ官軍とする布告が全国に出される。これを受けた各藩は、維新側への忠誠を示す絶好の機会として赤報隊への攻撃を開始。 隊員達が次々に戦死する中、相楽は誤解を解くように訴えるが、3月2日出頭命令が出される。相楽は出頭後、取り調べもなく、大木に縛られ雨ざらしにされた上、3月3日斬首された。享年30歳。 三木、篠原らはニセ官軍事件に連座、投獄されるが釈放されている。