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カテゴリ:哲学について
2年前の4月7日 新宿朝日カルチャーセンターでのネルケ無法老師と永井均先生の対談講座を受けるために休みをもらい東京へ。 藤田一照さんも受講されていた。 お二人の対談で、内山興聖老師の言う「自己ぎりの自己」が永井哲学での独在性〈私〉と対応するという話まで進んだところまではよかった。 永井先生とネルケ老師との意見が分かれたのは、その自己ぎりの自己〈私〉をなぜ仏教では他者にも展開してしまうのか?というところ。 永井先生は、天地いっぱいの生命や、菩薩行はおとぎ話であるという。ネルケ老師は身体の側(天地いっぱいの生命)から突き動かされ生かされる私があるという。 〈私〉の独在性は何によって担保されるのかということが、哲学者と禅僧との間での論点となる。 哲学者はどこまでも論理の立場であり、禅僧はどこまでも行の立場である。 世界の開闢の奇跡性を論理で表現するか、行の実践として現していくか。 その互いに真摯な立場の違いがよく出た議論だった。 終わって帰り道歩きながらわずかに一照さんと語る時間がありました。 私は永井哲学によって自分の存在の悩みから脱っすることができたし、引きこもりから世間に出ることができた。 永井哲学は純粋な哲学としての価値があると同時に、人を救い得る宗教的価値があると思っている。(これは永井先生は、哲学が思想化してしまうので極端に嫌がるのかもしれないが) 仏教の説く悟りや救いということは、すべて独在性の視点、すなわち〈私〉から世界が開かれているという事実が強く関わってると思っていて、告白すれば、この一点が私の僧侶としての宗教心となっています。 私はそこを坐禅を通して人に伝えたいと思って布教をしている。 笑い話で一照さんが、あなたの話を私が聞き手になるという形で講座をしてみたら面白いかもしれないねと言われた。 少なくとも私の救いの基本には世界を開闢する〈私〉の視点があり、坐禅への態度も常に「〈私〉の受け取り」ということに終始するのだと思う。 引きこもりから哲学者を志し、大学生になり、サラリーマンになり、僧侶になり、 気が付いたらアカデミックな世界にはもう戻れないかなと思っていたのが、2年前のクリスマスの夜、一照さんのご縁で、ずっと会いたかった永井先生と会うことができ、20年越しの想いを先生に話すこともできた。 ひたすらに右往左往して進んできた道は振り返れば全部一つに繋がっていたようでした。
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