永遠の0
こんばんは、鎌田ですおほほほ~~~、ポスターになっちゃいましたよ><w・・・いや、これ、同映画の公式ホームページから誰でも作れるんですけどね大ヒット中の映画「永遠の0」ですが、本日観てまいりました。実は、このごろ読んでいた本がこの映画の原作で、実は実は、まだ70%くらいしか読んでないんだけど、ちょうど時間があったし、うかうかしていて、映画の上映が終わってしまうとイヤだったのでまあ、どっちが先でもいいや、と思って観て参った次第です。結論から言いますと、これは大変素晴らしい映画でした。シアター内のあちこちからすすり泣きがずーっと聞こえていました。・・・僕は、ギリギリのところで涙は流さなかったんだけど、胸がいろいろな想いで詰まりました。そして、そのいろいろな想いゆえに涙が落ちなかったのかもしれない。それほどまでに深く、重い映画でした。実は僕は、太平洋戦争とその前後のできごと、いわゆる靖国問題ですとか、東京裁判であるとか、戦犯問題であるとか、そういうことについて、これはやはり「日本人として知るべき問題」として、もちろん専門としているわけではありませんが、それなりに勉強を続けている次第であり、もちろんもちろん、持論も持ち合わせているわけですが、これらのことについては、職業上、大きな声で語るべきことではあるまいと思い、あんまりその持論を公表することはありません。ほら、すぐに「右だ」とか「左だ」とか定義したがる人もいるしねただ、少しだけ書くなら、僕は右でも左でもなく、ただ「実存主義者」です。つまるところ、先の戦争に限らず、あらゆる戦争について良いとか悪いとか、正しいとか間違いだとか、そういう観点ではとらえておらず、僕にとって、すべての戦争において「それぞれの個」が生きた、それが大切です。そして、太平洋戦争にいたっては、「精一杯生きた人たち」の人生が今の日本をつくり、(これは、先進国とか占領国とか資本主義とか、 成功とか失敗とか、そういう観点ではありません。 人々の「いのち」が、その後のあらゆる事象に影響するのは自明)つまり、僕という「個」に、少なからず脈々とその「いのち」は残っており、だから、何を想うかは、人それぞれであるけれども、少なくとも、何があったかを知ること、そして、何かを感じることは、我々の「義務」であり「権利」であり、「生きている証」だと思っています。知った上での批判ならともかく、よく知らぬ状態で、我々のじいさん・ばあさんの「いのち」を批判するのはもう犯罪的なレベルのことであると思っています。さて、そういう僕が観賞した「永遠の0」ですが、原作である程度内容はわかっていたものの、なかなか素晴らしく映像化がされており、これなら活字がニガテな人でも、十分、なにかを感じることができるだろうな、と思いました。映画そのものへの感想は書きません。っていうか、書けません。原作の時点で思っていたことであり、また、本作以前に、さまざまな文献や映像をみるにつけ同じように思っていたことですが、そんなねぇ、軽々しく、「かわいそう」とか「悲しい」とか「感動した」とかそんなことばで表現できるものではないですよ。しかし、このストーリーにおいては、僕もそれなりに当時の様子を勉強してきたけど、そんな机上の知識をはるかに超える現実、その中で、確実にひとりひとりの「個」が生きて、そして、その「個」がみんなつながり、それは時代をこえて、今の我々の「いのち」に生きている、それを感じるに十分すぎる内容でした。「特攻」というテーマは、あまりに衝撃的かもしれません。ともすれば、そっちのショックで、多くの想いを抱けないかもしれない。しかし、特攻だけとっても神風だけではない。回天も桜花も震洋もあった。何を想って操縦席に乗りこんだか。そんなことはわからない。でも、間違いなく「思いやり」の心が機動力になったであろう。僕はそう想うけど、ほかの人は何を想うかわからない。だから、観てほしいと思います。僕は、自宅に戦争映画の名盤である「大日本帝国」のDVDを所有しており、これは何度も何度も見返しているのですが、おそらく、かなり史実に忠実にあんまり感情論とか抜きにして描かれた作品だと思います。その作品性ゆえ、日本史を専攻する学生なんかには推薦したりしてるのですが、「永遠の0」は、高校生以上には観てほしいと思います。そして、何かを感じてほしいと思います。「大日本帝国」は戦争映画です。しかし、「永遠の0」は僕にとっては戦争映画ではありません。これは、人間ドラマです。「実存」の物語です。我々と一緒と言ってははなはだ無礼ですが、ひとりひとりの「いのち」がどのようにつながっているのか、自分はどう生きて、どう死ぬのか、戦時中と現代では、まるで決断のレベルがちがうけど、「実存」という意味においては同じかもしれません。ある意味、その「意味」がみえづらい現代の若者の方がなかなか自分の「いのち」を感じられないのかもしれません。そんな現代の若者が自分の「いのち」の中に他の人たちのいのちが生きていることを感じることはとっても大切だと思います。今日のシアターは、半数くらいの入りでした。年輩の方が多く見受けたけれども学生さん風の、若い子の姿もありました。上映後、彼らが感想を言い合っていました。「・・・正直、オレ、 戦争映画って興味なかったんだけど、 ・・・これは、よかったね」「・・・そういえば、アタシのおばあちゃんって、 ガダルカナルの後で、弟さんとね・・・」そんな彼らの姿をみて、僕はとっても心強く思ったし、こういう感想でいい、何かを想う機会をもってほしいと思いました。・・・あ、いや、だからそれは、「日本人ならば太平洋戦争を知らねばならぬ」というそういう単純な表現で終わることじゃなくてね、自分が今「いきている」、そのことの裏付けとしてほかの多くの人々、70年前の人々が「いきていた」、それを感じるべきである。ちなみに、特攻で亡くなった、今日シアターで会った若者と同世代の皆様は「靖国で待っています」と遺書をお書きになった。そのことを知った上で、いろいろ感じてほしいと思いました。 ・・・まあ、軽々しく感想も書けないので結果的に、何を書いてんだかわからない記事になりましたがこの映画は「事件」です。高校生以上推奨と書いたのは中学生以下だと、誰かのペアレンタルガイダンスがないとちょいと意味合いが異なるかなぁ、と思ったから。高校生以上については何を想うか、は、その人の「責任」です。 ちなみに、僕は19歳の夏、アメリカはメーン州におりました。8月6日の朝、ホームステイ先のおとうさんが僕に言いました「(Good) Morning,MASA! ・・・well・・・ Today is "That-Day". ・・・What do you think about・・・?」僕は、拙い英語で自分の想いを語りました。当時40歳そこそこの彼は、日本からやってきた、ちょんちょこりんの若造のヘタな英語にいちいち深くうなずき、耳を傾けてくれました。答えはありません。でも、自分の「想い」を持つことは何よりも大切です。自分が「いきる」ために。kama