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カテゴリ:テレビ番組
さて、自分の身の上におきたそのイジメの話である。
小学校二年の時のはなしである。多少遠回りになるが、今起きているイジメの問題について考えるときにどうしても避けて通れない話である。聞いてくれ。 小学校二年になって突然なのだが、授業中に虫眼鏡を使って上履きを焦がされたり、靴や傘、体育着といったものが無くなったりゴミ箱に捨てられたりとかした。ランドセルの中に給食室から持ってきたと思われる生ゴミを詰め込まれていた、なんてこともあった。 また、校庭で並ばされたときなど後ろから頭を何度もこずかれたりとかも茶飯事だった。 それこそ学校には行きたくなくなるし、親には言えないしで随分と暗い時期であった。 なぜ自分がイジメの対象になったかはよくはわからない。それとも、今そのNに聞きにいった方がいいのだろうか? 自分は「イジメ」を首謀しているのがNだということをうすうすとは感じていた。しかしNらのグループは巧妙に立ち回りなかなか証拠というか尻尾を見せようとはしない。さらに女子の中にも自分に対するイジメに同調しておもしろがっているSをリーダーとしているグループがいることをなんとなく感じていた。 むしろそのことを知ったときの方が自分にとっては絶望的なショックだったと言ってよかったかもしれない。 NとSは担任のAという女教師のお気に入りだったからだ。 あるとき、体育館で児童全員が集められ列になって並ばされたことのことだ。 いつものように後ろの方からの自分に対するアタマを小突いたりの攻撃が始まった。 振り返ると何人かがニヤニヤ笑っている。彼らからすれば単にゲーム感覚だ。 特にNのニヤニヤ笑いに独特なものを感じ取った。何度かののち、自分の頭をかすめた手が確実にNのものだと見て、自分は反射的に本能的に振り返ると、Nに突進して行って思いっきりNの右頬をぶったたいてしまった。 バシッ!と音がしてNは尻餅をつくと、大声を出して泣き出してしまった。 ぶっ叩いた自分も呆然としてしまうくらいのクリーン・ヒットである。 自分の左手がものすごい武器だということを知った瞬間でもあった。 すぐに担任のAがすっ飛んできた。 有無を言わせず自分はAにつまみ出されて体育館のうしろに立たされた。 言い訳などは一切聞いてはもらえない。「いいから立っていなさい!」の一言だけだった。 当時こどものころにはそこまで思い及ばなかったのだが、実に不思議なタイミングだったとしか言いようがない。 というよりも、このAという女教師は確実に自分に対するイジメを見て知っていたはずだ。今にして思えば。 この事件から、自分に対するNらからのイジメはピタッとなくなった。それどころか、彼らからは本格的に相手にされなくなってしまった。「怒らせるとものすごく怖い奴」というレッテル貼りをされたからである。 なにも「力には力で対抗することがイジメという問題の解決方法だよ」というような話をしたいのではない。もっと深刻な話である。 今度はAからの(言葉による)イジメが始まったのである。 ことあるごとに「暴力は良くない」という例えとして自分が起こした事件を何度も引き合いに出したり、三年になってからも、学級委員かなんかに選ばれながらも、Aはその事件を持ち出して、自分の当選を取り消されたりもしたのだ。ものすごく執拗なイジメである。こんなことが三年生の間もずっと続いていたのだ。まあ、Aにすれば自分のような子供は扱いにくかったろうけれど。 四年生になって、新しく担任になったKという男性教師のお蔭で自分は救われたといってもいいかも知れない。そう言う意味で、今でもこのKという先生には感謝の念を抱いている。 自殺という問題を別にして、今こうして多発しているイジメそのもの問題の陰には、確実に教師の「無気力」という原因がころがっていると思う。 見て見ぬ振りをして「自分のクラスではそういう事件などない」ということにして一年間無事に過ごすということの方が教師にとって重要らしいからだ、自分の教師としての評価を上げるためにだ。 たとえば、テレビで討論番組があると、パネラーとして呼ばれた教師が口を開くと、彼らの口からは「言い訳」しか聞かれない。これが不満だ。ゾクシー・ドールみたいに叫びたいくらいである。 社会が悪い、親も悪い、教育制度が悪い、自分等はその被害者だと、口にするような連中である。自らの保身しか考えていない人間ばかりなのだ。 あるいはイジメの問題はあくまで特殊なケースだと抗弁する者もいる。「あくまで一般論として」と前置きしてイジメ問題を語る評論家もどきの教師である。こういう人間がイジメの問題を深刻化、複雑化しているのはまず間違いない。 まず、イジメなんてどこにでも普通にあることだという認識が一番大切なことだからだ。 中学・高校の同級生には教師の道を選んだ者が多い。不況まっただなかの時代だからである。そのほとんどが、就職間際になってしかたなく教師の道を選んだという人間ばかりだ。そして、そういう人間が今や全国の教師達の中核になっているのである。 いわゆる「問題教師」がこうまで多数出るというのは、二十数年前に行なった教師資格試験が大失敗だったということだ。人選の基準が間違っていたのだ。失敗だったとしか言いようがないのではないか。 で、その二十数年前に行われた資格試験がその後改められたかというとそうではない。むしろそのことを憂慮すべきではないか。これからも今起きている同じような問題は決してなくならないのだ、このままでは。 しかし、たとえば身近には、そういう教師らとは真逆の、「何故この人は学校の教師にならないのだろう」と言いたくなるような人が野にいるのも見逃せない事実だ。 なりたくてもなれないという人もかなりいる。しかし、その教師になれない理由というのが、大学に行っていないとか、教職課程を履修していないとか、そういうどうでもいいようなことだったりする。 今本当に教育の腐敗という問題から、教師の質を高めようとするのであれば、もっと門戸を大きく広げて教職という領域を競争社会にして、質の悪い教師をどんどんとふるいにかけるなりなんなりして教師の質を高めてゆくのがもっとも正しい方法のような気がしてならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010年11月05日 11時29分02秒
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