説教要約 517
「人間の堕罪(2)」 甲斐慎一郎 創世記3章 「キリストは、私たちの罪のために死んでくださったので、このキリストの贖いを信じる者はだれでも罪から救われます」というのが福音であり、キリスト教の中心です。 しかしキリストの十字架の死は、今から2000年も前にエルサレムで起きた出来事です。それが、どうして2000年後の極東の日本に住んでいる私たちのためなのでしょうか。その時間的、空間的な隔たりをどのように考えればよいのでしょうか。このことについて使徒パウロは、ローマ人への手紙の5章12~21節において次のように述べています。 一 アダムの堕罪と死の支配 パウロは、キリストの贖罪による恵みが、時間と空間を超越して全人類に及ぶというすばらしい事実を示すために、アダムの堕罪によって生じた罪とその結果である死が、時空を超越して全人類に及んでいるという厳粛な事実を述べています(ローマ5章12節)。 上の図の赤い線の三角形は、人類の古い代表(かしら)であるアダム(第一の人)を頂点とし、そのアダムの堕罪によって世界に死がはいり、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 このように聖書は、アダムが罪を犯した時、すべての人は彼の「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の傘下にはいっていたという人類の連帯性を教えています。 二 キリストの贖罪といのちの支配 上の図の青い線の三角形は、人類の新しい代表(かしら)であるキリスト(第二の人)を頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 パウロは、人類の真の代表であるキリストとキリストのひな型であるアダム(ローマ5章14節)を比較して、「本物に対してひな型であるアダムの堕罪は、世界に死をもたらし、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に及んでいるのです。とすれば、なおのこと、人類の真の代表であるキリストの贖罪は、どうして世界にいのちを与え、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に満ちあふれないわけがあるでしょうか」とキリストとそのいのちの優越性を述べています(ローマ5章15、17節)。 三 死の支配からいのちの支配への移行 すべての人は、アダムの子孫として生まれるので(第一の誕生)、彼の堕罪による死の支配から逃れることはできませんが、だれでも罪を悔い改め、キリストを信じて新しく生まれるならば(第二の誕生)、主の贖罪によるいのちの支配下にはいることができるのです。拙著「創世記の聖徒たち」6「人間の堕罪(2)」より転載