説教要約 417
「十字架の救い」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、3章17~21節 パウロの書いた「ピリピ人への手紙は」は「喜びと勝利の書簡」と呼ばれ、パウロは、この手紙の中で何度も何度も彼自身が喜んでいることを述べているだけでなく、ほかの人にも喜ぶように勧めています。 しかしこの箇所には、それとは対照的に十字架の敵として歩んでいる多くの人々のために涙を流して語っているパウロの姿が描かれています。 一、模範的なパウロの姿(17、18節) この箇所には、パウロの模範的な姿が記されています。 ◇「私を見ならう者になってください。……私たちを手本(模範)として歩んでいる人たちに、目を留めてください」(17節)。 他の箇所においても(使徒26章29節、第一コリント11章1節)、彼は、同じようなことを述べていますが、これはどのように考えたならば、よいのでしょうか。 パウロは、うぬぼれが強く、傲慢不遜な人なのでしょうか。決してそうではありません。彼は、キリストの福音を「私の福音」(ローマ2章16節)ということができたほど福音が受肉化し、全く新しく生まれ変わっていたので、御名をあがめながら「私のようになってください」と語ったのです。 ◇「私は、しばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのです」(18節)。 このように福音によって全く変えられたパウロは、十字架の敵として歩んでいる多くの人々の姿を見る時、彼らを卑下したり、冷たくさばいたりするどころではなく、彼らの最後を思うにつけ、涙を流さずに語ることができないほど愛に満たされていたのです。 二、的はずれな罪人の姿(19節) この箇所には、罪人の姿が記されています。 ◇「彼らの神は彼らの欲望であり」。 欲望を神とするとは、物欲と肉欲を満たすことをすべてとすることであり、その結果は、善悪の区別を無視して、欲望を満たそうとするため、必ず堕落していくのです。 ◇「彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」。 これは、善悪や正邪の区別を無視して堕落した結果、美醜や栄辱を識別する感覚まで失い、醜いことや恥ずべきことを行っても、何とも思わないばかりか、得意になることです。 ◇「彼らの思いは地上のことだけです」。 ギリシャ語で人間のことを「アンスローポス(上を仰ぐ者)」と言うように、人は上を仰いで向上し、さらに神を仰いで聖くならなければならない者です。しかし地上のことだけしか思わなければ、堕落するのです。 三、栄光あるキリスト者の姿(20、21節) これに対してキリスト者の姿は、どのようなものでしょうか。 ◇「けれども、私たちの国籍は天にあります」(20節)。 これは、神の子どもとされたキリスト者が「神の相続人……キリストとの共同相続人」(ローマ8章17節)として天にある「いのちの書」に名が記されていることです(ルカ10章20節、黙示録20章12、15節)。 ◇「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(20節)。 これは、キリストの再臨を待ち望むことで、「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清く」するのです(第一ヨハネ3章3節)。 ◇「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(21節)。 私たちの信仰生活は、地上を歩み、様々な苦難に囲まれていても、キリストの再臨と栄化を待ち望み、天の御国に向かって、喜びと輝きに満ちているでしょうか。