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カテゴリ:教育について
学校事情がなんだかおかしい。これは何も最近に始まったことではないわけで、20年以上前から感じていたことだ。
そのころ教育関連の書籍を読みあさったことがあり、どうもおかしな方向に向かっているのではないかと、若輩ながらそんな懸念をいだいていた。 最近メディアをにぎわしている「いじめによる自殺」の報道を見ていて思うのだけれど、「子供の声をもっときけ」だとか「子供たちの状況の把握がたりない」とか、評論家はや現場の親たちは口にしている。 はたしてそう言う問題だろうか? それは、子供達をよりひ弱にしてしまう可能性はないだろうか? 昔の親や先生は、今よりも子供の実態を知っていたとは思えない。 むしろ今より関心がなかったように思うのだ。 それでも、今の子供達より逞しく生きてきた。 じゃ、何が問題なの? 大ざっぱに言えば、人と人の繋がりの稀薄さなのかもしれない。 人と人なんていう大人のもの言いでなく、子供達どうしの遊びのすくなさと言った方が良いのかも知れないが、とにかく今の子供達はグループで遊ぶことが少ないのは確かだ。 公園で遊ぶ子供達を見かけなくなって久しく、友達の家に複数であそびに行っても、それぞれにゲームをしているだけで、交わす言葉も少なく、だだ黙々と自分と無機質なゲームと戯れて、時間が来れば帰って行く。 確かに子供時代は楽しいこともいっぱいある。しかし、子供なりの挫折や嫌な思いをすることも、大人のレベルでは計り知れないほど多い。 昔、学校は今より少なかった。 だけど生徒の数は、今より遙かに多かった。 生徒の数が多いと、いじめや嫌な思いをする事がより多いと思いがちだけれど、昔は逆にそれほどでもなかったように思う。 人の数が多いことによって、子供なりに鍛えられたのかも知れない。 伸ばされることもなく置き去りにされた輪ゴムは、簡単にちぎれていまう。動かさない筋肉は、簡単に衰える。熱いうちにたたかない鉄はもろい。誰もが知っているそんな事実を忘れがちなのだろう。 親が子供を育てる中で、子供に望むことは何だろう。 「幸せになってほしい」と思うのは当たり前だ。 それは、嫌な思いをさせない子供時代を過ごさせてあげることではない。自分たちの力で解決できる力を付けさせてあげることだ。 そして、子供には必要最低限のものしか与えるべきではないと思う。 子供は不便とさ向き合うべきなのだ。 子供を救いたかったら、親が変わらなければ何も変わらない。 教育改革の第一歩はそこから始めるべきだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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