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カテゴリ:苦難の20世紀史
ロヴァニエミ攻略作戦が不発に終わった後、ラップランド方面軍司令官ヒャルマー・シーラスヴォ中将はすぐに次善の策を講じました。 それはスウェーデン国境に近いトルニオとケミという2つの港町の攻略でした。 ケミの方はトルニオの側面を守る位置にあり、中部フィンランドから続く街道が整備されており、この2つの町をとることで、フィンランド湾全域を押さえる事が出来ます。 ドイツ軍の関心はこの地域に向いていませんが、いずれ押さえようとしてくるのは確実でした。つまりトルニオとケミをドイツ軍に先駆けて攻略すれば、誰が見てもフィンランドとドイツがまじめに戦争をしているように見える。シーラスヴォはそう考えました。 ただ大きな問題がありました。 トルニオを攻略するには海からになりますが、フィンランド軍は海軍が貧弱で、上陸作戦も不慣れでした。それに同地域はノルウェーのドイツ空軍の行動範囲内にあるため、いつドイツ軍爆撃機が飛んでくるかわからないのに(ノルウェーのドイツ軍は「まやかし戦争」の事実を知らず、ドイツを裏切ったフィンランドに対して敵意を持っていました)、フィンランド軍の方は付近に飛行場がないため、戦闘機が護衛することは出来ません。 そのためこの作戦案を総司令部が許可するはずがないと、シーラスヴォは独断で実行しまおうと考えていました。 しかし作戦決行の前日9月30日、マンネルヘイム大統領と最高司令官ハインリッヒス大将に知られてしまいました。 2人共この作戦が危険な、投機性の高い作戦であることを理解しましたが、翌10月1日午前8時なでにドイツと本気で戦えと言うリミットをソ連に突きつけられていたため、やむなく作戦を承認しました。 ただし上陸作戦をおこなうための船舶が足らず、2千名程度しか一度に輸送できないため、トルニオのみ限定して攻略するよう厳命しました。 10月1日早朝、ハルスティ大佐率いる第11歩兵連隊(第3歩兵師団所属)は、トルニオに上陸、7時50分までに市内、港湾施設全域を占領しました。ドイツ軍はごく少数の警備兵しか配備していなかったため、フィンランド軍の上陸に大あわてで撤退しました。 タイムリミットの10分前に作戦成功したことは、マンネルヘイム大統領を安堵させました。きわどいタイミングですが、ソ連に再侵攻の口実を与えることは回避できたのです。 一方、ドイツ第20山岳軍団は、予定にないフィンランド軍の攻撃に混乱しました。司令官ロタール・レンデュリック上級大将はドイツ軍司令部に勤務しているフィンランド軍の連絡士官を呼んで、「貴官はこの計画を知っていたか?」と尋ねました。 もちろんマンネルヘイム大統領ですら、決行寸前まで知らなかったものですから、ドイツ軍と行動を共にしている連絡士官が知るわけがありません。ミッケリのフィンランド軍総司令部に連絡をおこないましたが返答はありませんでした。レンデュリックは来るべき時がきたことを悟りました。 「今までの貴国の友誼に感謝する。現時刻をもってドイツとフィンランドは交戦状態に突入した」 レンデュリックは、第20山岳軍団将兵に本当の戦闘をするよう命令を下しました。この時ドイツ軍将兵を動揺させたのは、「ラップランドを破壊、二度と人が住めない焦土とせよ」という、ヒトラーからの命令の実施を命じられたことでした。 ラップランドに駐留すること3年、この国に愛着を持ち始めていたドイツ軍将兵にとって、総統命令は酷なものでした。しかし生きて祖国に帰るため、将兵たちは泣く泣く実行していくことになります。 ラップランドを焼き払うことに躊躇っても、フィンランド兵との戦闘についてドイツ兵たちに躊躇いはありませんでした。一方のフィンランド兵たちも、昨日までの戦友ドイツ軍との戦闘に戦意は非常に低かったものの、戦場では激しく戦っています。これは軍人という職業の救われない性なのでしょう。 両軍初めての本格的な戦闘は、10月2日にケミで始まりました。フィンランド軍はトルニオからケミを攻略するために南下し、ドイツ軍はトルニオ奪還のため戦闘団を編成してケミへ向かってきたのです。 戦車を有するドイツ軍大部隊の攻撃に、フィンランド軍は苦戦を強いられ、ケミ攻略を断念してトルニオへ退却しました。つかさずドイツ軍は追撃して両軍は激しい戦闘を繰り広げました。 戦闘は一時トルニオ市内まで広がり、ドイツ軍の攻勢にフィンランド軍は追い詰められましたが、ドイツ軍も戦力を出し尽くしており、トルニオ奪還に今ひとつ及びません。やがてケミの南側から陸路フィンランド軍部隊が進撃してきたため、退路を断たれることを恐れたドイツ軍は、10月6日、奪還を諦めて退却しました。 一方、ラップランド最大の都市にして交通の要衝ロヴァニエミ市でも、両軍の激しい戦闘が開始されました。 同地を守備していたドイツ軍第7山岳師団はフィンランド軍の戦車師団相手に善戦し、遅滞戦闘を展開していました。ロヴァニエミを早期に失うことは、ラップランド東部にいる10万近いドイツ軍の逃げ道を失うことになるからです。 味方の大半が無事に退却したのを見届けた第7山岳師団が、ロヴァニエミから退却したのは10月16日、一連の戦闘でフィンランド軍は約300名、ドイツ軍も100名以上の戦死者を出す激戦でした。 退却に際してドイツ軍はロヴァニエミ市内を焼き払い、市街地の9割弱が灰燼に帰しました。廃墟と化したロヴァニエミをみてフィンランド兵は震撼しましたが、住民が無事なのを見て驚愕しました。 住民たちが無事だったのは、フィンランドに対するドイツ兵たちの未練でした。 しかし命令文には住民を殺せとは書いてありません。第20山岳軍団の将兵たちはそれを逆手にとって、命令どおり家屋は焼き払うが住民は殺さないという逃げ道を作ったのです。 伝えられている話ですと、ロヴァニエミではドイツ兵が家々を回り、「今から〇時間後に家を焼き払う、今の内に食糧や毛布をもって避難しろ」と触れて歩いたと言われています。そして住民の居なくなった家に火を付けて回ったのです。 さらに「これから厳寒の冬を迎え、我が軍の将兵たちが暖をとるための家屋が必要だ。大人数を収容できる教会や学校などは焼き払うな」と、建物の一部は火を付けずに残しました。 焦土命令を実行するドイツ兵たちは殿なので、彼らより後にやってくる味方部隊はいません(逃げ遅れて退却中のドイツ兵はいますが)。味方のためと言っていますが、実際は焼き出された住民たちが凍死しないように、逃げ込める建物を口実を設けてわざと残したというのが真相なのでしょう。 当然このドイツ兵たちの行動は、司令官レンデュリック上級大将の耳にも入りましたが、部下たちの心情を理解している彼は咎めたりせず、黙認しています。 そのためラップランド戦争中の、住民の死傷者は200名を超えますが、ドイツ兵に焼き殺されたり凍死した者はほとんど居ません。大部分が流れ弾に当たったり地雷による犠牲者でした。もしロシアと同様の焦土命令が実行されていたら、人口30万を超えるラップランド住民の犠牲者の数は100倍、200倍になっていたかもしれません。 かくしてフィンランドとドイツは、本格的な戦闘に突入し、さらに激しい戦いが続いていくことになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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