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カテゴリ:西暦535年の大噴火
えーっと、前回の続きではなく、今回全部脱線です(汗)。 知っているようで知られていない、ローマ帝国についてのトリビアです。 今ブログで書いている話と直接関係ありませんが、こういう機会がないと語る機会もないでしょうし、高校世界史の授業では触れられることはないと思いますから、適当に酒のつまみにしていただければ幸いです。 歴史の教科書では、ローマ帝国東西分裂(395年)や、西ローマ帝国、東ローマ帝国といった固有名詞が出てきます。また東ローマ帝国は8世紀頃になると、ビザンツ帝国(ビザンチン帝国という言い方もあります)と呼ばれる事も、ご存じの方も多いでしょう。 しかしこれらはいずれも、歴史をわかりやすくするために、歴史家によって便宜的につけられた区分や固有名詞に過ぎません。 ローマ帝国の分裂ですが、テオドシウス帝(在位379~395年)が死に際して、長男アルカディウスにコンスタンティノーブル(現在のトルコ、イスタンブール市)を帝都とした東方領土を、次男ホノリウスに帝都ローマを中心にした西方領土を与えたことに由来します。 しかし当事者たちの意識では、ローマ帝国は分裂などしていません。簡単に言えば統治エリアを分けて、行政区画を整理しただけです。 ローマの分割統治の歴史は古く、共和制の時、カエサル(紀元前100~紀元前44年)が、ポンペイウスとクラッススの3人で三頭政治をおこなった時がはじまりです。 当時、ローマは広大になりすぎた領土を、円滑に統治することが難しくなっていたのです。 カエサル暗殺後、その地位を継いだオクタヴィアヌス(紀元前63~紀元前14年。カエサルの姪の子で、ローマ帝国創設者)も、最初は(第2回)三頭政治を引き継ぎますが、ライバルのマルクス・アントニウスをアクティウムの海戦で破って打倒して、ローマ帝国は皇帝1人体制で始まりましたが、統治が行き届かず、やはり多くの問題(特に異民族の侵入問題)を抱えていました。 そしてディオクレティアヌス帝(在位284~305年)の時、正帝と副帝の2人体制とし、それでもまだ問題が多かったため、2正帝2副帝の4人の皇帝が国土を4分割して統治する方式を導入しました。 しかしディオクレティアヌスの死後、新たな混乱(都合4人のローマ皇帝が、覇権を巡って争うようになったため)、コンスタンティヌス1世(在位306~337年。副帝、西方皇帝時代を含みます)によって再統合がはかられました。 しかしこれで一件落着とならず、395年、テオドシウス帝の死後、再び分割統治方式を取り入れたのです。 したがって、東西どちらもローマ帝国を名乗っており、国民意識も「ローマ人」で変わっていません。 これはたとえて言えば、北海道を東西に分けて、行政区分的には東北海道・西北海道に分けたとしても、どちらも北海道であることは変わりませんし、住人も「北海道民」という意識は、恐らく変わらないのでしょう。それと同じです。どちらが正当な皇帝、もしくは別国家という事ではないのです。 しかし、ただ「ローマ皇帝」と言っても、ローマとコンスタンティノーブルのどちらの皇帝かわかりませんから、東西をつけてわかりやすく理解できるようにしたのです。 ただ、東西に分けられた後、ローマ帝国は再統合することは最後まで無かったため(西ローマ帝国は476年、東ローマ帝国は1453年に滅亡しています)、ローマ帝国は仲違いして分裂して、別国家になって滅んだように見えてしまうのは、仕方ないのかも知れません。 次にビザンツ帝国という呼び方について、説明したいと思います。 8世紀になると、東ローマ帝国は、公用語をラテン語からギリシア語に変更しました。 この時代の東ローマ帝国領は、バルカン半島とギリシア、そしてトルコの一部のみとなってしまい、かつての大帝国の面影はありませんでした。 帝国臣民もギリシア人が中心となり、現地に住むローマ人たちも、長い年月の間に、ギリシア人化していました。 したがって実質的に東ローマ帝国は、「ローマ人の国」ではなく、「ギリシア人の国」になっていたのです。煩雑さを避け、統治を円滑にするために、公用語の変更という手段に踏み切ったのは、現実的な政策だったでしょう。 19世紀のイギリスの歴史学者たちは、その点を指摘して、「東ローマ帝国と呼ぶのはふさわしくない。帝都コンスタンティノーブルの旧名ビザンチウムにちなんで、"ビザンツ帝国"と呼ぶべきだ」と主張したのです。それが定着して、東ローマ帝国をビザンツ帝国と呼ぶことが一般的になったのです。 確かに言語を捨てるという決断は、「ローマ人」のアイデンティティを捨てたと解釈していいのかも知れませんから、イギリスの歴史学者たちの主張は一理あるかも知れません。しかし当事者たちの意識を反映したものでないことは、注意しなくてはいけません。 もしタイムマシンで、8~15世紀位のコンスタンティノーブルにいき、住民に「ここはビザンツ帝国ですか? あなた方はビザンツ人ですか?」と尋ねたとしても、「ビザンツって何だ?」と首をかしげた後、「ここはローマ帝国だ。我々はローマ人だ」と、ギリシア語で答えることでしょう。 その意識は、1453年にオスマン・トルコ帝国によって滅ぼされる瞬間まで、変わらなかったでしょう。 それが紀元前753年に都市国家ローマが誕生して以来、大帝国を作り上げ、2千年以上にわたって地中海世界に君臨した"ローマ人"の矜持でした。 とまぁ、今回の脱線はこれぐらいにして、次回から西暦535年の話、東ローマ帝国の話に入っていきたいと思います。 ちなみに今回の話、次回でとても参考になる・・・事は全くないかも知れません。いや、絶対ならないな(汗)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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