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2014.03.02
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

へばってる姿

前回から、だいぶ間が空いてしまいました(汗)。

母鳥のことや、仕事のトラブルなどが連発して、書く余裕が全くなかったんですよね(多汗)。

内容が内容なので、そう頻繁に更新できませんが、最低月1回更新目指して、頑張りたいと思います(平伏)。

それでは東ローマ帝国の話から入っていきたいと思います。

西暦540年頃、東ローマ帝国はユスティニアヌス1世(在位527~565年)の治世でした。

彼は滅亡した西ローマ帝国の領域の大半を取り戻し、東ローマ帝国の最盛期を築いた皇帝として知られています。

この頃、東ローマ帝国は、イタリア半島では東ゴート王国と、イベリア半島では西ゴート王国、アラビア半島と今のイラクではサーサーン朝ペルシア帝国とそれぞれ戦争状態にありました。

二正面、三正面戦争は、戦略的には愚策ですが、この時期のペルシアや他国は数年前からの飢饉で大きく衰退していました。

東ローマ帝国も飢饉に見舞われていましたが、ローマは伝統として平時から食糧備蓄に熱心だったこともあり(無産市民(財産も仕事もないローマ市民)に小麦を配給するため)、敵国に比べればまだ余力があり、一方面に10万の兵力を貼り付けておける事が出来ました。そのため、四方の敵と同時に戦争しつつ、戦況を有利に進めることができていました。

特にイタリアとスペインでは東ローマ帝国軍は戦況を有利に展開しており、東西ローマ帝国の領域の再統合の野心を持つ、ユスティニアヌスの願望は、あと一歩で達成されそうな状況でした。

そんな中541年、アフリカ・中東との窓口であるペルシウムの港町に1つの疫病が上陸しました。それは東アフリカ文明を壊滅に追いやったペストでした。

「ある人の場合は頭部から始まった。目から出血し、顔がむくみ、のどに下って死んでしまった。腹から出血した人たちもいた。またリンパ腺が腫れ高熱が出て、2.3日後には亡くなってしまう人たちもいたが、彼らの精神状態は、体が丈夫な人たちと同様にしっかりしていた。
だがその他の人たちは、気を失ってからすぐに死んだ。悪性の膿疱が出て、死んでしまったのだ。この病気に2回かかって回復する人もいたが、3回目には力尽きて亡くなってしまった」

​「ペストはエチオピア(ここではアフリカという意味で使っています)からやってきた」​

​とは、6世紀に『教会史』をまとめたシリアの歴史家(といってもローマ人ですが)エウアグリオス(生没年不明)の言葉です。​

エウアグリオスと同じく、悲痛な記録を残しているのが、歴史家エフェソス(現在のトルコ・セルチュク付近にあった都市)ヨーアンネース(生没年不明)です。

「美しくて理想的な家庭が、人数の多少を問わず突如として墓場になった。召使いも同時に急死し、その腐肉は一緒に寝室に横たわった。死体が裂けて路上で腐っていることもあったが、埋葬してくれる人などいなかった。
街路で朽ち果てた遺体は、見る者に怖気をもたらすだけだった。腹はふくれ、口は大きく開き、膿はどっと吐き出され、目は腫れ、手は上に伸びていた。
遺体は街角、路上、中庭のポーチや教会内で腐りながら横たわっていた。海上に浮かぶ何隻もの船でも、船乗りたちが突如神の怒りに襲われ、船は波間を漂う墓場となり果てた」

ヨーアンネースはペストから逃れるように、故郷エフェソスを離れ、各地を転々としながら、帝都コンスタンティノーブルを目指しました。

それは東ローマ帝国の街々の死の記録でした。

「私たちも毎日、皆と同じように、墓の門をたたいた(「瀕死の重体だった」と言う意味の慣用句)。晩になると、今夜はきっと死神がやってくるだろうと考えた。そして朝になると、私たちは日がな一日、墓の方を見ていた(「死のことを考えていた」という意味です)

「移動中に通り過ぎた村々は、陰鬱なうめき声を上げ、遺体は地面に転がっていた。途中の集落は、ぞっとするような暗さに満ちていて人気が無く、たまたま立ち寄った人は誰しも、すぐに出てきてしまった。砦はうち捨てられ、放浪者は山あいに四散した」

「畑の穀物はまっすぐ白く立っていたが、刈り取る者はいなかった。羊、山羊、牛、豚の群れは、まさに野獣と化し、飼われていた時代を忘れ、自分たちを引き連れていた人たちの声もとうに忘れてしまった」

たどり着いたコンスタンティノーブルで、ヨーアンネースが見たものは、道中で見たものとおなじ光景でした。

「天罰がこの都に重くのしかかった。まず襲われたのは路上に横たわっていた貧者たちだった。1日のうちにこの世を去った人数は5千人から7千人、さらには1万2千人、そしてついには1万6千人にのぼった。
だがこれはまだ本の序の口だった。役人たちは各港や十字路、そして市門の入り口に立って死人の数を数えていた。コンスタンティノーブル市民で生き残っている人はごく少数になった。死者数は数えあげられていたが、役人は23万人まで数えたところで足し算をやめてしまい、それ以降は「大勢だ」と言うだけになった。こうしてその後の遺体は、数えられることなく持ち去られたのである」

「すぐさま埋葬場所が足りなくなった。街には死臭が立ちこめた。担架も墓堀人もいなくなった。遺体は路上に積まれていった」

「遺体は舟という舟に満載され、海中に放り投げられた。舟は次の遺体を運びに、また岸辺へ戻っていった。舟が戻ってくると、担架が地面に置かれ、そこに2、3の遺体がまた放り投げられた。この繰り返しだった。他の人たちも何体かの遺体を舟に乗せた。腐り始めている死体もあったので、筵が編まれ遺体が包まれた。そうした死体は、何本かの棒に乗せられて海岸まで運ばれ、放り投げられた。体から膿が流出していた。海岸一帯に重なっている何千、何万という遺体は、一見すると、まるで大河で遭難した船の漂流物のようだった。流れる膿は海に垂れていた」


ペスト流行前、人口50万と言われた帝都コンスタンティノーブル市民の死者は、20万名以上にのぼり、またペスト感染を恐れて大勢の市民が帝都を捨てたため、6世紀半ばの人口は10万程度まで減少しました。帝都の機能、東ローマ帝国の経済、行政機構は完全に麻痺しました。戦争継続は事実上不可能でした。

ユスティニアヌスはペスト対策に力を注ぎましたが、当時の医学水準では、有効なペスト治療法は無く、国中に放置されたままの遺体を、報奨金を出して埋葬する以上の対策を講じることは出来ませんでした(遺体処理は、後日の疫病発生リスクを軽減する意味で有効です)

東ローマ帝国を襲った最初のペストは、545年にいったん終息しましたが、その後も大流行と終息を繰り返しながら、200年にわたって地中海地域を苦しめることになります。

上で触れた歴史家のエウアグリオスも、生涯で4回のペストの大流行を記録しています。そして、家族のほとんどをペストで失いました。

「この病に苦しまなかった民族は1つもなかったと思う。何度ものペスト来襲によって、私は自分の子ども多数と妻、親族の大半を失った。
(中略)
今私は58歳になる。4回目のペストがアンティエキア(現在のシリア。当時の東ローマ領シリアの首都)を襲った時は、以前失った親族に加えて、娘一人とその息子を失った。あの時からまだ2年も過ぎていない」

ペストによって都市は機能を喪失し、農村は荒廃しました。特に衛生環境の悪い戦地にいた軍の犠牲は大きかったようで、崩壊寸前となりました。なまじ戦争が拡大していた分、消耗が大きくなってしまったのです。

騒動の中、ユスティニアヌス帝もペストに倒れ(完治しましたが)、政治機能も一時的に喪失しました。もしこの時、外敵の侵攻があったら、東ローマ帝国は瓦解する可能性もありましたが、ペストはペルシアやイタリア、西ヨーロッパにも広まり、被害が敵国にも拡大して打撃を与えていたため、それはありませんでした。

東ローマもペルシアも、西ヨーロッパもペストと飢饉で病み衰え、慢性的に続いていた戦争は、一時的に自然消滅しましたがそれもつかの間、すぐに激しい戦争が再開されました。国内の飢饉を解消するため、他国から食糧を奪うしか道が無くなっていったからです。

東ローマやペルシアの辺境では、飢餓に陥った遊牧民族の侵入が相次ぐようになりました。

そして飢餓とペストで弱体化したヨーロッパに、東から新たな戦乱を運んできた草原の民がいました。それはアヴァール人でした。

次は謎の遊牧民族、アヴァール人に触れたいと思います。






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Last updated  2019.03.16 14:04:03
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