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カテゴリ:西暦535年の大噴火
「月1回は・・・」といいつ、危うく忘れるところでした(汗)。 東ローマ帝国から話は変わりまして、謎の遊牧民族アヴァール人について触れたいと思います。 アヴァールは558年に突如東方から現れ、わずか2年で、現在のハンガリーからルーマニア、ウクライナに至る地域に一大勢力(「アヴァール可汗国」と呼ばれることもあります)を築きました。 強力な軍事力で現在の東欧やウクライナにいたウティグル族、 クトリグル族、サビル族(民族系統不明)や、スラブ族(言わずと知れた今のロシア人やポーランド人などの先祖)を征服、恭順させて、度々ドナウ川を渡って、東ローマ帝国領に侵入することになります。 東ローマ帝国の記録に登場する558年以前の、アヴァール人の経歴はハッキリしません。しかし、中国と東ローマ帝国に残された記録の一致点や類似性から、アヴァールは6世紀半ばまでモンゴル高原を支配し、中国の北方を脅かしていた遊牧民族柔然ではないかと考えられています。 というわけで、「アヴァール」の元になった「柔然」の話です。 中国の北方を遊牧民族が度々脅かしていたことは、中国史に詳しい方はご存じと思います。 秦代(紀元前778~紀元前206年)に建設された万里の長城(現代の長城は明代(1368~1644年)のものです。秦代の長城は、現在の者より北にありました)も、遊牧民族匈奴(民族系統は不明)の侵入を阻むために作られたという話は有名です。 遊牧民は、家畜とともに草を求めて移動しながら生活しています。自分たちに不足している食糧や様々な物資、さらに女性(遊牧は過酷な環境のため、女性の生存率は、定住生活をおくる農耕民族より低く、いわゆる年中嫁不足状態なのです)を、農耕民族から略奪していくので、農耕民からすればイナゴよりタチの悪い存在です。 遊牧民族には、中国だけでなく、古代ギリシア人もスキタイに苦しめられています。 彼ら遊牧民には国家や国土という意識はありません。追えば逃げ、引けば押してきます。騎馬の機動力を十二分に活かした彼らに、農耕民族の軍隊は小回りがきかず、対応しきれません。 もっとも、遊牧民は年中農耕民族を襲っているわけではなく、平和な時は馬(農耕用から軍馬まで、農耕民にとっても貴重な存在でした)や乳製品を農耕民に売り、塩や茶(特にビタミン豊富な茶は、脚気など、野菜とビタミン不足の病が多かった遊牧民たちにとって、無くてはならない貴重品でした)、穀物を買うなど、両者は相互依存関係でもありました。 さて柔然(民族系統不明)ですが、彼らの勃興は3世紀にさかのぼります。 それまでモンゴル高原を支配していた鮮卑族が、中国華北へ移住したのを契機に(鮮卑族は中国で北魏(386~534年)を建国しました)、勢力を拡大し、5世紀には、モンゴル高原から西のアラル海あたりまでを支配する一大勢力を築きました。 遊牧民は君主号に可汗(「カガン」と読みます。モンゴル語では「ハーン」と言います)という称号を使っていますが、その称号を初めて使ったのは柔然でした。 6世紀前半、柔然は可汗の地位を巡って内紛が絶えなくなり、南の北魏の圧迫や、傘下にいた同じ遊牧民の突厥(テュルク系民族。突厥はヨーロッパではテュルクと呼ばれています。この頃はアルタイ山脈(ロシア・モンゴル・中国・カザフスタンの国境地域)に住んでいました)が次第に力をつけて反抗的になってきていました。 しかし、草原を制するのは馬であり、馬の牧畜に適した草原地帯を支配していた柔然は、以前強い力を維持することが出来ました(この頃突厥が有していた家畜は、牛や羊が中心で、馬はまだ少なかったのです)。 その柔然の優位が、突然崩れたのは、530年代後半あたりからです。 この時期、柔然内では大きな政変は起きておらず、急速な弱体化の理由はハッキリわかっていません。 間接的な証拠としては、モンゴル高原北のシベリアの樹木の年輪調査で、535~545年の間の樹木の生長がほぼ無く、モンゴル高原でも、大寒波と干ばつがひどかった事が推測されています。 柔然弱体化の原因は、異常気象が密接な影響を与えたのは間違いないでしょう。というのも、寒冷化や干ばつの影響は、草原地帯ほど大きくダメージが出るからです。 降水量の減少は草原を枯らし、水源を喪失させます。柔然人たちが飼っていた馬は次々に倒れ、人も飢餓に苦しんだのではないかと思います。 一方、突厥人の住む山岳地帯はと言うと、草原地帯より幾分ましでした。 なぜなら山は雲がぶつかって雨が降るので、大干ばつに襲われても、多少は雨に恵まれ、したがって植物も動物も草原地帯よりは生き延びやすくなるのです。なので日本の昔の記録だと、飢饉のとき山に逃げろと言う話が出てきますが、それは合理的で正しい判断なのです さらに突厥人たちが飼っていた牛は、実は馬に比べて飢饉に強い生き物でした。 こういった事情から、遊牧民の財産である家畜の生存率は、アルタイ山脈にいた突厥人の方が、モンゴル高原にいた柔然人より高かったのです。それが両者の力の逆転に繋がっていったと考えられます。 540年代半ば、干ばつと寒波が一段落すると、突厥はモンゴル高原に進出してきて、公然と柔然と敵対姿勢を取るようになります。 そして552年、突厥の伊利可汗は、「柔然可汗の娘を妻として差し出すように」と柔然の阿那瓌(あかない)可汗に要求し、柔然が拒絶すると戦争に踏み切りました。 南から北斉(550~577年まで中国華北の東部にあった国)や高句麗(朝鮮半島北部にあった国)にも攻められた柔然は大敗し、阿那瓌可汗は自刃し、柔然はちりじりになりました。 突厥に捕らえられた者は皆殺しにされたため、柔然人たちの多くは、モンゴル高原に留まるのを諦め、北のシベリアの森林地帯を目指して逃亡するか、北斉に降伏しました。 それでも戦いをやめない柔然人たちの一派は、突厥と敵対する西魏(535~556年まで中国華北の西側にあった国。534年に北魏が東西に分裂した際に、西半分を領土とした国です)に亡命して、突厥に抵抗しました。しかし彼らを待っていた運命は悲惨なものでした。 一端は柔然の残党を利用して、突厥と戦うことを考えた西魏ですが、突厥の勢いを見て、戦争を躊躇いました(この時西魏は、北斉と、南の梁と戦争状態にありました)。 そして突厥の伊利可汗は、西魏と講和する条件として、柔然残党の排除を求め、西魏は柔然の成人男性約3千人全員を処刑し(女性や子どもは奴隷として諸侯に分配されました)、柔然は滅びました。 次回は、シベリアに逃れた柔然人たちの動き、アヴァール人になってヨーロッパに現れる話について触れてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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