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カテゴリ:西暦535年の大噴火
ひと月って早いなぁ(汗)。 それはさておき、前回柔然滅亡のくだりまでお話ししましたが、突厥に敗れた後、シベリアの原生林に逃れた柔然人たちが、どうやって北カフカスまで移動したか見てみたいと思います。 なお、文献記録は残されていないため、私の推測が多いことを始めにお断りいたします。 中国や中央アジアの記録には、柔然西進の記録はありません。 それも道理で、東西交易路、いわゆるシルクロードは、突厥の支配下にあり、敵である柔然人たちを通してくれるわけがありません。 ではどうやって西方に逃れたかですが、シルクロード北の草原の道を通って移動したと考えられています。 草原の道は、シルクロードほど知られていませんが、古代から遊牧民の通り道の1つです。深い森林や山脈、湖沼や泥濘地帯も多く、冬の寒さも厳しい遠回りコースですが、突厥に妨害されないで移動するにはここしか無かったでしょう。 しかしこのルートを通ったことは、滅亡寸前だった彼らが、息を吹き返すきっかけになったと思われます。 前にも触れましたが、草原地帯に比べて山岳地帯は食糧が手に入りやすく、ルート沿いには小さい規模の狩猟民族もいました。突厥には抗しえない柔然人たちも、これら少数民族には強い存在でした。彼らを征服、もしくは食糧や家畜を奪いながら、西を移動していったのではないかと思います。 こうした民族大移動の果てに、558年、「アヴァール人」たちは北カフカスに現れました。この時、彼らの勢力もかなり回復してきていたと思われます。 東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世は、アヴァールに使者を送っています。宿敵サーサーン朝ペルシアを脅かす、有力な同盟相手になりうると考えたのです。 しかしペストと飢饉で荒廃したペルシアに、アヴァール人たちは食指を動かさず、彼らは東ローマ帝国領への居住を希望しました。 ユスティニアヌスがこの提案を拒絶すると(すでに帝国領内は、多数の異民族が居住していて、これ以上、厄介な異民族が増えることを望んでいませんでした)、アヴァール人たちは、現在のウクライナからハンガリーに至る地域を、わずか2年で力ずくで征服しました。 そして562年、現在のルーマニアにいたランゴバルド人(ゲルマン系民族)を脅迫してイタリアに追い払い(ランゴバルド人の侵入で、イタリアにあった東ゴート王国は弱体化し、553年、東ローマ帝国によって滅ぼされています)、トランシルヴァニア、東パンノニア(いずれも現在のルーマニア)にいたゲピド族(ゲルマン系民族)を滅ぼして、ドナウ川北岸に進出、東ローマ帝国と国境を接しました。 ペストで疲弊していた東ローマ帝国は、アヴァールに軍事的に対応する余裕はなかったので、彼らに金品を貢納することで帝国への侵入を防ごうとしましたが、これは大きな失敗でした。 ローマからもたらされる富に幻惑されたアヴァール人たちは、口実を設けては貢納の増額を要求し、支払いが滞ると配下のスラブ人(現在のロシア人やポーランド人の先祖)に帝国領を略奪させました。 この事態に、皇帝ユスティヌス2世(位565~578年)は、和戦どちらを選択するか、明確な方針を決めることが出来ず、対応は二転三転しました。アヴァールを格下の存在と侮っていたため、不測の事態に対策が後手に回ってしまったのです。 この事はアヴァールに付け入る隙を与えてしまうことになりました。それは東ローマ帝国を、世界帝国から地方国家へと転落させる原因の一つとなってしまいます。
と、今回の話はここまでにして、まとめ的に、柔然がどうしてアヴァールになったと考えられるか、歴史的記録から見てみたいと思います。 まず、前回のおさらい的な、中国史料に出てくる柔然の姿です。 ・突厥に変わられるまでは、モンゴル高原から西域(狭義には現在の中国、新彊ウイグル地区を指しますが、広義にはアラル海あたりまでの中央アジアを含みます)に、強大な勢力を誇っていた。 次はアヴァールがヨーロッパに現れた時、接触したローマ人が残した記録です。 ・テュルク (Türk) に破られる前のアヴァールは全スキタイ(東方遊牧民)中の最強者であった。 突厥は東ローマ帝国では「テュルク」と呼ばれていました。 一時、東ローマ帝国と突厥は、対ペルシア同盟を結びましたが、東ローマがアヴァールと講和すると、「テュルクとアヴァールは積年の敵である。敵と結んだローマは信用できない」と怒って、国交を断絶しています。 今更いうまでもなく、突厥と柔然は仇敵同士でしたから、「アヴァール=柔然」説はこの点で辻褄は合います。 Taugasですが、これは西魏を指すと思われます。なぜなら西魏(北魏)の皇族の姓は拓跋といいます。東ローマでは国名と皇帝一族の姓が、混同されていた可能性は高いと思われます。 アヴァールの君主号の「Gagan」「Khaghan」については、柔然の君主号「可汗(カガン)」をそのまま音訳したといえそうです。「阿那瓌=Anagaios」も同様です。 この時代、「可汗」の君主号を使う民族は柔然と、その影響を受けている突厥だけでしたから、可能性は高そうです。 もちろん、上の点は、全て状況証拠だけなので、確実な証拠があるわけではありませんが、少なくとも柔然とアヴァールの間には、浅からぬ関係があることは間違いないようです。 では次回は、アヴァールの登場で激変する地中海情勢について、触れてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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