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カテゴリ:西暦535年の大噴火
・・・月1は更新したいといいながら、ずっと間が空いてしまいましたが(汗)。西暦535年の大噴火の続きを、これからも忘れた頃に書いていきたいなと思います。 541年以降、東ローマ帝国は度重なるペストの大流行にあえいでいましたが、それは周辺地域も同じでした。東のサーサーン朝ペルシア帝国、西の東ゴート王国(553年に東ローマ帝国の攻撃により滅亡)ともペストと飢餓に苦しみ、略奪戦争は激しさを増し、消耗戦の様相を呈していました。 そして560年代になると、東ローマ帝国は、新たに北に現れたアヴァール人たちの侵入に苦しめられることになります。 東ローマ帝国は、帝国領に侵攻しない確約のためアヴァールに貢納し、それに味を占めたアヴァールがたびたび増額を求めた事は前回触れましたが、それは年を追うごとに要求は大きくなりました。さらにローマ帝国がきちんと貢納しても、アヴァールは口実をもうけては、配下のスラブ族をけしかけて略奪を繰り返しました。 バルカン半島にあった都市シルミウム(現在のセルビア、スレムスカ・ミトロヴィツァ市)は、交通の要衝だったこともあり、度々アヴァールの攻撃を受けました。 ここにあるローマ時代の遺跡には、「主キリストよ、この街を救いたまえ、そしてアヴァール族を打ち倒して、ローマ帝国の土地と私を守りたまえ。アーメン」という住民の走り書きが見つかっています。いかにアヴァールの攻撃が激しかったかがうかがえます。 シルミウムは実に20年近くアヴァールの執拗な攻撃に晒され、580年にとうとう陥落することになります。 バルカン半島が戦場になったことは、同地を兵員徴用地としていた東ローマ帝国軍をにとって大きな打撃でした。バルカン半島が荒廃し人口が激減すれば、その分、軍の兵力が不足して戦力を維持できなくなるからです。 そんな厳しい状況の中、東ローマ帝国の立て直しを図った人物がいました。将軍だったマウリキウス(539~602年。ローマ皇帝位は582~602年)でした。 彼は侵攻してきたペルシア軍を阻止し、アヴァール人とスラブ人にも度々撃退して軍人として有能さを発揮しました。 日本では無名な彼ですが、ヨーロッパでは軍事思想家の嚆矢として知られています。かのプロイセンのフリードリッヒ大王は、「ローマにはマウリキウスという優れた軍事思想家がいたが、中世の西ヨーロッパには見るべき人物は一人もいない」と評しています。 軍人としての資質以外にも、マウリキウスは行政官、外交官としても有能さを発揮し、高潔な人柄でも知られていました。 彼の妻は皇帝ティベリウス2世(位578~582年)の娘で、皇帝に男子がいないことから、早くから次期皇帝候補と目されていました。 そして582年にティベリウスが崩御すると、マウリキウスは皇帝に即位し、国家の立て直しと改革にあたることになります。 この時東ローマ帝国の財政は危機的状況でした。ペストで人口が激減して納税人口が激減した結果、農業と商業も衰退の一途をたどっていました。 依然ペルシアやランゴバルド人(東ゴート王国滅亡後、北イタリア一帯を支配し、東ローマ帝国と戦争が続いていました)との戦争も続いていたため、軍事予算を減らすことは出来ません。さらにアヴァールへの貢納では、いくら金銭があっても足りません。マウリキウスが即位した時、国庫はほとんど空でした。 マウリキウスは攻撃の主軸をアヴァールにおき、ペルシアとは戦争終結を目指す方針を掲げました。先帝までの政策を180度反転させたものでした。 彼がアヴァールではなく、ペルシアとの関係改善に主眼をおいたのは、ペルシアはローマと同じ文明国同士ですから、交渉によって妥協出来るが、「文明国のルール」を理解しないアヴァールとは、交渉は出来ないと冷静に考えたからです。 「彼ら(アヴァール人)は不誠実で怠け者。信頼が置けず、富に貪欲だ」とは、マウリキウスのアヴァールへの評価です。 バルカン半島で、アヴァール人やスラブ人と戦った経験のあるマウリキウスは、戦地で彼らがいかに残虐に住民たちを虐殺したかを知っていました。 彼はトピルス(現在トルコのコルルの街)で、女性や子どもが連れ去られ、約1万5千人の男性全員が虐殺された跡を、直接見たことがあったのです(歴史家のプロコビオスは、アヴァール人とスラブ人がおこなった残虐行為を、「抵抗するものは老若を問わず全て殺されるか奴隷にされ、財産は略奪された」「彼らは民衆を殺害したが、剣や槍などの通常の手段を用いず、先端をとがらせた杭を地中にしっかり突き立て、無理やりその上に乗せ、尻の穴にその杭を当てて回転させて、力ずくで体内に押し込んだ。また彼ら蛮人は、太い杭を4本地面に深く突き立ててその杭に犠牲者の四肢を縛り付け、こん棒で殴りつけ、まるで犬か蛇みたいに殺してしまった」と、記録しています)。したがって、アヴァールとは妥協の余地はないと考えていたのです。 マウリキウスは、アヴァールと組んでイタリアを荒らすランゴバルド人の攻撃に対応するため、ラヴェンナ(イタリア北部、アドリア海に面したところにある都市)と、カルタゴ(チュニジアの首都チュニス近くの都市)に総督府を置いて拠点を築き、軍の綱紀粛正と再編に着手しますが、財政難が祟って改革ははかどりません。結果、増税で国民は苦しみ、ペルシアとの和平交渉も暗礁に乗り上げる状況が続きました。 そんなマウリキウスに一筋の光明が見えたのは、590年、ペルシアで政変が起き、皇帝ホスロー2世(位590~628年)が亡命してきたことでした。 マウリキウスはホスロー2世を保護すると、彼を支援してペルシアの混乱を鎮め、ホスローを復位させました。 彼の優れた政治手腕と、誠実な人柄にうたれたホスローは、復位すると東ローマとの停戦・平和条約締結に同意し、591年、両国の戦争は正式に終結しました。 ようやくマウリキウスは、アヴァール対策に全力で取り組めると考えましたが、思わぬ所から、彼の足下は崩れ去ることになります。 602年、軍が反乱を起こしたのです。 次は東ローマ帝国を一気に凋落させることになる「フォカスの反乱」について、触れたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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