|
カテゴリ:西暦535年の大噴火
はぁ、今回更新が早くできました。次回からは絶賛遅筆化すると思いますが、飛ばせる時は飛ばすということで。 皇帝マウリキウスが、軍の綱紀粛正に手を尽くしていたことは前回簡単に触れましたが、その理由は、即位前軍人だった彼は、当時の東ローマ帝国軍の士気と秩序が、絶望的なまでに退廃している事をよく知っていたからでした。 兵士は戦場のどさくさに紛れて、味方の街や村を襲って略奪し、戦利品を着服するなど、目に余る行為が日常化していたのです。 そこでマウリキウスは、ローマ軍の規律を正し、今で言うところの士官学校を創設して、将校教育をおこない、戦利品の分配方法を変えて、不正な着服を防止する制度を新たに設けたのです。 しかし略奪や戦利品を、ボーナス的な収入源としていた兵士たちにとって、この改革は不評でした。 さらに財政難から、やむなく官吏や軍人の給与の一部を、金銭から現物支給に変え、増税に踏み切ったことで、不満は軍だけでなく、官吏や国民の間にも広がり始めていました。 日本で前にとある総理大臣が、「痛みをともなう改革」をスローガンに掲げましたが、その言葉は改革の本質を捉えた正しい意見なのです。 改革も革命も、今までのあり方を大きく変えるわけですが、「既存権益」側だけが痛くて、大部分の民衆には恩恵だけしかないなどと言う、都合のよいものではないのです。民衆側も何らかの痛みを伴うことなく、改革がなしえるものではないのです。 しかし、この時の東ローマ帝国の人々は、その痛みに耐えられませんでした。ペストに飢餓、戦争、忍耐は限界に達していたのです。マウリキウスは、増税や給与の支払い方法など、国民に理解を求めましたが、この時の彼らに、それを許容出来る余裕はなかったのです。 コンスタンティノーブルの壁に、「皇帝は強欲」と言った書き込みがされるようになっていきました。 アヴァールに貢納を拒否したのも(国民の血税を、無為にアヴァールに与えまいとする危害だったわけですが)、相次ぐ増税をおこなうのも、マウリキウスが私腹を肥やすためだと、事実とは異なる中傷がされるようになったのです。 さらに敬虔なキリスト教徒だったことも、批判のタネにされました。国民に重税を課して、自分は教会に寄進して、皇帝はひとり天国に行きたいのだと陰口を言われたのです。今やマウリキウスは、東ローマ帝国で一番嫌われた存在になっていったのです。 こういう話は現在でも珍しくない話ですね。 政治家にせよ、芸能関係の人物にせよ、いったんケチがつくと、何をやっても言ってひたすら叩き、擁護する人にも罵声が浴びせられるわけです。人間の性(さが)というのは、どこの国、いつの時代でもあまり変わらないようです。 そして、602年11月、マウリキウスがアヴァールとの戦争に備えて、軍にドナウ川北岸で越冬することを命じた時、軍の不満は一気に爆発しました。 反乱軍は、演説が上手くて気っぷがいいと、仲間内で人気のあった百人隊長フォカスを指導者にして、帝都コンスタンティノーブルへ進軍を開始しました。 マウリキウスとフォカスは面識がありました。マウリキウスは彼を「勇敢だが血と殺戮を好む。百人隊長以上の地位を与えてはならぬ」と発言していました。この言葉は、不幸にして後日的中することになります。 反乱軍が帝都を目指していることを知ると、皇帝に不満を持つ市民たちがこれに同調し、争乱は瞬く間に、コンスタンティノーブルへと拡大しました。 「市民たちは夜を徹して群がり、わいせつなモットーを絶叫し、皇帝を侮辱、中傷するような言葉を発し、(コンスタンディヌーポリ)総主教もこけにした」 と、当時の歴史家テオファネースは記録しています。 もはや、自分は市民から皇帝として認められていないことを悟ったマウリキウスは、皇帝を退位する文書に署名し、妻子と共に宮殿を出ました。 一方のフォカスは、兵士たちの推挙で皇帝に即位し、最後までマウリキウス帝を支持していた元老院とコンスタンディヌーポリ総主教も、これ以上の混乱を避けるため、しぶしぶ即位を承認しました。 こうして皇帝となったフォカスですが、10日とたたない内にマウリキウスが危惧した狂気の部分をあらわにしていきます。 まず市民を扇動して、コンスタンティノーブルの政治団体緑党(もしくはサーカス党とも言います)を襲撃させて、党員のほとんどを、家族もろとも虐殺させました。 緑党はマウリキウス帝に反発して、フォカスを支援していた政治団体でしたが、皇帝となった彼に「恩着せがましく」あれをやれ、これをやれと要求してくる彼らはすでに邪魔なだけの存在だったのです。 さらにフォカスは、マウリキウス帝と家族を捕らえると、まずマウリキウスの5人の息子たちを、彼の面前で残虐な拷問をしていたぶってから処刑し、それを見せつけてから彼を処刑したのです。 「この途方もない悲劇の中で、皇帝(マウリキウスのこと)は勇気を示された。一人の乳母が我が子を皇帝の子の替え玉にしようとした時、彼はそれを認めず、自分の子を指したのである。その子が殺害された時、血と共に乳が流れ落ち、その現場を目撃したものは全員、さめざめと泣いたという。最後に皇帝は処刑場の露と消えた(歴史家テオファネースの記録)」 マウリキウスは命乞いをすることなく、フォカスに恨み言もひとつもいうことなく、皇帝としての威厳をたたえて処刑されたと伝えられています。 フォカスが「暴君とその息子たちの末路」と、マウリキウス帝とその息子たちの首を埋葬させずに、腐るに任せて晒した時、皇帝に反発して興奮状態だったコンスタンティノーブル市民は、激しく動揺しました。 テオファネースが記したとおり、乳飲み子すら拷問して殺すような男を、皇帝にしてしまった愚行に初めて気がついたのです。しかし全ては後の祭りでした。 歴史家テオファネースは「(マウリキウス帝処刑)以来、大災害と多くの惨事が、ローマ帝国を襲うことになった」と悲痛に嘆いています。 フォカスは、マウリキウス帝を処刑することで反乱を正当化させ、市民の支持を得られると思っていたようですが、現実は逆でした。 この一件で元々薄かった市民の彼への支持は粉々に消え去り、彼を皇帝に推挙した兵士たちからも離反者が出るようになりました。 フォカスの行為は、外交的にも致命的なミスでした。隣国サーサーン朝ペルシアが平和条約を破棄して、宣戦布告してきたからです。 前のブログで触れましたが、ペルシア皇帝ホスロー2世の復位は、マウリキウスの尽力あってのことでしたから、ホスローはマウリキウス帝処刑の激怒し、私的復讐と自国の国益双方を両立させる手段、東ローマ帝国領へ侵攻して領土を奪う道を選択したのです。 603年、東ローマ帝国とペルシア帝国は再び泥沼の戦乱に突入しました。それは両国にとって、得るものはひとつもなく、失うものだけしかない破滅的な戦乱でした。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[西暦535年の大噴火] カテゴリの最新記事
|