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2014.11.19
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

近影7

「僭帝フォカスを倒せ!」を旗印にして、サーサーン朝ペルシアが、東ローマ帝国へ侵攻を開始しました。

両国の戦争は、ペルシア皇帝ホスロー2世の思惑に反して、シリア、パレスチナで膠着化しました。

これは東ローマ軍が弱体化していただけでなく、ペルシア軍も負けず劣らず弱体化著しかったからです。いわば病人ふたりが、片腕に点滴をしながら、殴り合いしているようなものでした。双方に勢いがなかったのです。

また戦略家としての才能は皆無のフォカスでしたが、戦術家としては一定の能力があったため、戦場で東ローマ軍が大きく崩れることもありませんでした。

とはいえ、大きな損害を出しながらも、ペルシア軍は一歩一歩東ローマ領を奪い、帝都コンスタンティノーブルに迫りつつありました。

戦争が膠着化し消耗戦となるにつれ、フォカスへの支持は目減りしていきました。

元々彼に政治理念も政策もありませんから、市民の期待に応えられる仕事は1つも出来ません。さらに泥沼化した戦争となれば、彼が支持される理由がありません。

市民の不支持を自覚したフォカスは毎日酒浸りになり、最初は彼に批判的な者を、めぼしい敵がいなくなると、自分の支持者や部下を些細な口実で処刑していきました。

もっとも酷い話として伝えられているのは、娘の結婚式の際、花婿に真っ先に祝いの声をかけた花婿の親族や友人たちを、「皇帝たる予を軽んじている」として、四肢をへし折り、コロッセオ(円形闘技場)で吊し首にして処刑したことでしょう(この件でフォカスは、自分の娘からも見捨てられることになります)

1人殺す度に敵は増え、それを押さえ込もうとさらに残忍な方法で処刑して見せしめにして敵を増やす堂々巡りになっていきました。フォカス時代、コロッセオには、処刑された人々の遺体が数百も山積みにされ、腐るに任せて放置させていました

そして608年、修道院にかくまわれていた先帝マウリキウスの妻と3人の娘を、強引に引きずり出して処刑すると(これは教会への不入権への侵害であり、フォカスとコンスタンディヌーポリ総主教の仲は完全に決裂しました)、とうとう反フォカスの反乱が帝国全土で発生しました。

反乱に対応するため、ドナウ川沿いに展開させていた東ローマ軍を引き抜きましたが、これは東ローマ領侵入のチャンスを、虎視眈々と狙っていたアヴァールに、絶好の機会をくれてやる結果になりました。

609年、アヴァール軍は大挙ドナウ川を越え、フォカスを支持する唯一の基盤であった軍は壊滅的な打撃を受け、バルカン半島とギリシアの大半が、アヴァールに蹂躙されました。

同年、カルタゴ総督ヘラクレイオスの息子ヘラクレイオス(父と同姓同名でややこしいです)が反旗を翻し、艦隊を率いてコンスタンティノーブルに迫ると、元老院や緑党(の残党)は、ヘラクレイオスに内通して、城門は無血で開放されました。ヘラクレイオスは帝都を2日で掌握しました。

フォカスは教会に逃げ込んだものの捕縛され、生きたままヘラクレイオスの前に引きずり出されました。

この時彼は、「フォカスを殺せ! 残忍に殺せ! マウリキウス帝のように!」という群衆の声に震え上がって、命乞いはおろか、立つことも出来ない有様だったといわれています。

あまりに情けないその姿は、ヘラクレイオスの癇に障りました。一瞬群衆の望みどおりにと思った彼ですが、寸前で踏みとどまりました。

もし残忍な方法でフォカスを殺せば、マウリキウス帝を殺した彼と同類に成り下がることに気がついたのです。それは破滅の道でした。

ヘラクレイオスは怒れる民衆に、「市民諸君、私も諸君と心は同じである。しかし理性を無くしてはならないのだ。暴君は罰を受けねばならないが、神の御心にかなうものでなくてはならない」と宥め、鎮めました。

「新皇帝万歳!」の声の中、フォカスは火刑により処刑されました。

ここで脱線ですが、「火刑って残酷な方法じゃない?」と思われるかも知れません。
確かにその通りなのですが、キリスト教的な意味合いから考えると、火は聖なるものであり、聖なる炎によって不浄な魂を浄化するという、「救済」という意味合いを持つのです。したがって温情と解釈されることになります。・・・まぁ、生物学的には残酷なんですけどね。

ローマ帝国史の中で、屈指の暴君として名を残し、嫌われたフォカスですが、彼を評価する人もいなかったわけではありません。

その最も代表的なのは、時のローマ教皇グレゴリウス1世でした。

コンスタンディヌーポリ総主教は、表面的にしかフォカスを支持しようとしませんでしたから、キリスト教を国教としている東ローマ帝国の皇帝としてのフォカスの権威は、初めから無きに等しい状況でした。

これに怒った彼は、コンスタンティノープルとライバル関係にあるローマの教皇庁を正統として取り入って、自己の権力を正当化しようとしたのです。

西ローマ帝国滅亡以来、権威の失墜していたローマ・カトリック側は大喜びで、フォカスを称賛しましたが(そのため、フォカスの死後、彼の祈念碑を作るなど、カトリックに尽力した人物の1人として遇しています。彼が暴君であったことなど、カトリック側では全く問題にされていません。政治的な評価というものが、いかに倫理とは異なる原理が働くかが分かります)、この行動も、彼の政治基盤を弱めることになりました。

同じキリスト教でも、東方教会(現在のギリシア正教)と、ローマ・カトリックでは教義が異なり、全く別物となっていましたから、フォカスの行為は、東方教会のみならず、東ローマ帝国臣民とその信仰への裏切りになってしまったのです。

結局彼は、最後まで百人隊長のままの力量しか持たなかったのです。

かくして暴君フォカスは自滅同然の死を迎え、ペルシア帝国が掲げた戦争の大義名分はなくなりました。

しかしいったん始まった戦争は、それで止むことはありませんでした。

次回は、その後の血まみれな戦争の結末について、触れてみたいと思います。






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Last updated  2016.12.28 22:54:45
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