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2014.12.02
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

友人と談笑中

暴君フォカスを打倒し、ヘラクレイオス(1世)が皇帝に即位(位610~641年)しました。小説ならここでエンドロールとなるかも知れませんが、現実はそう言うわけにはいきません。むしろ、彼の苦難はここから始まったと言っていいでしょう。

「皇帝に就任したヘラクレイオスは、東ローマ帝国全土が、惨憺たる状態になっていることに気づいた。蛮族たち(アヴァール人とスラブ人のこと)はヨーロッパを荒れ地にしてしまったし、ペルシアはアジア全域(東ローマ帝国の東方領土、現在のトルコのこと)を破壊し尽くし、全ての都市を従属させ、東ローマ帝国全体を絶えず圧迫していた(歴史家テオファネースの記録)

帝都コンスタンティノーブルの北には、バルカン半島とギリシアの大半を蹂躙したアヴァール人とスラブ人の軍が迫り、ボスポラス海峡の対岸には、シリアとエジプトを占領したサーサーン朝ペルシア軍が迫っていました。

ペルシアとアヴァールの侵攻により、東ローマ帝国は国土の7割を失なっていました。

さらにエルサレム陥落により、キリスト教徒にとって、もっとも神聖なる聖遺物である「聖なる十字架(イエス・キリストが磔刑された時に使用されたとされる十字架)をペルシア軍に奪われたことは、東ローマ帝国軍の士気を絶望的なまでに低下させていました。

その惨憺たる有様に、絶望したヘラクレイオスは、一時、カルタゴへの脱出も考えましたが、用意した船が難破したのと、先々帝マウリキウスが育成した将校団の生き残りに説得され(たった2名にまで減少していました。残りは戦争で死ぬか、フォカスに処刑されました)、彼は皇帝として帝都に踏みとどまることを決意しました。

彼はまず、コンスタンティノーブルの城壁まで、アヴァール軍を誘い込んでこれを痛撃して(この城壁は1453年の東ローマ帝国滅亡の瞬間まで、難攻不落を誇りました)、ドナウ川の北に追い払うと、613年にはペルシア軍をボスポラス海峡から撤退に追い込みました(すでに補給線が伸びきり、疲弊していたペルシア軍は、攻勢の限界点に達していたのです。またフォカスの死で、戦争の大義名分が無くなったため、ペルシア皇帝ホスロー2世の思いとは裏腹に、ペルシア軍将兵の戦意は、急速に低下していました)

このきわどい勝利により、東ローマ帝国はかろうじて滅亡を免れました。

その後9年にわたり、守りに徹して軍の再建に努めたヘラクレイオスは、622年、ようやくエジプト奪還のため、親征の途につきました。

なぜ小アジアやバルカン半島ではなく、エジプトからはじめたかと言えば、当時の東ローマ帝国の経済を支えていたのは、一大穀倉地帯だったエジプトだったからです。

かの地を奪還無しない限り、東ローマ帝国の再建は出来ないのです(ちなみにエジプトの失陥により、小麦の無産市民への配給が不可能となったため、ローマ史上で有名な「パンと見せ物の政治」は、ヘラクレイオス帝の時に終焉を迎えました)

7度の及ぶ親征の末、シリア、エジプトを奪還したヘラクレイオスは、余勢をかってペルシア領に侵攻しました。

そしてニネヴェの戦い(627年。現在のイラク、モスル市の近く)で、ペルシア軍主力部隊を破り、ペルシアの首都クテシフォン(現在のバクダード南東あたりにあった古代都市)を包囲しました。

この状況に至っても、ホスロー2世はあくまで戦争継続を主張しましたが、すでにペルシアに抗戦能力は尽きていました。彼は息子カワード2世(位628年)に暗殺され、東ローマ帝国とペルシアは、停戦に合意しました。

もう一方の主役であるアヴァールも、この頃、東ローマ側の策略で、スラブ人が自立、アヴァールと敵対するようになり(この頃、アヴァール的な戦い方を身につけ、実力をつけ始めた彼らは、次第に対立するようになっていました。元々ウクライナに住んでいた彼らを征服して、捨て駒にしてきましたから、スラブ人はアヴァールを憎んでいました)、彼らはおおっぴらに、東ローマ領に大規模な侵攻することが出来なくなっていました。

さらに東ローマ側は、アヴァールと敵対する北カフカスの部族と同盟してその後背を脅かしたので、この後しだいに弱体化しはじめることになります。

こうしてフォカスの反乱に端を発した20年の及ぶ戦乱は、いったん終結しました。

東ローマ帝国は、国土の大半を奪還しましたが、ペストと戦乱で国民の2/3を失い、激しく衰弱していました。特に財政的な損失は大きく、国家財政は破綻寸前、国民の多くも重税(戦争を継続するため、マウリキウス帝時代の税額の11~14倍もの増税をおこなわなければならなかったのです)で破産寸前でした。

過ぎたことですが、マウリキウス帝の改革が成功していたら、国民がもう少しだけ改革の痛みに耐えられていたら、ここまでの惨状にはならなかったでしょう。その意味では、フォカスの反乱は、東ローマ帝国にとって、致命的な事件になったのです。

また、半世紀にわたって東ローマを脅かし続けたアヴァールも、長すぎる戦争の中で力を失っていました。

内部では、前述のように、尖兵になっていたスラブ人たちの自立と反攻、そして北カフカスから新たに現れた遊牧民族ハザール族(アヴァールにとっては仇敵の、テュルク系民族と推測されています)の攻撃により、その領域は、現在のハンガリーとドイツの一部に押し込められていきます。

そして791年、西から侵攻してきたフランク王国カール大帝によって滅ぼされ、地上から消滅することになります。現在、アヴァール人は他の東欧諸民族と混じり合って、民族としては存在しません。

そしてペルシアも、20年に及ぶ戦争は、深刻なダメージを居っていました。

東ローマ帝国同様、財政は破綻し、軍も壊滅的な打撃をおっていました。さらに戦争後期にチグリス・ユーフラテス川でおきた大洪水で、穀倉地帯が壊滅的な打撃を受けたため、深刻な食糧難にも陥っていました。

カワード2世は内政と国力の回復に専念しようとしますが、不幸にして戦争終結後すぐに病死してしまいます。
新しい皇帝にはまだ8歳の彼の息子アルダシール3世が即位しましたが、幼児に統治能力があるはずもなく、ペルシアの政治は混乱しつづけることになりました。

そんな混乱の中、新しい敵が南から現れます。

アラビア半島を統一したその新勢力は、ムハンマド・イブン・アブデゥッラーフ(570頃~632年6月8日)が興した新興宗教イスラム勢力でした。

いよいよ世界三大宗教の1つ、イスラム教が歴史に登場することになります。






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Last updated  2019.03.16 14:01:05
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