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2014.12.23
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

近影6

さて、いきなりイスラム勢力とサーサーン朝ペルシア、東ローマ帝国との戦乱の話に入っていると、西暦535年の大災害がアラビア半島にどのような影響を与えたのか、イスラム教が誕生したのかがいまいち分かり難いかも知れません。

そこで今回は、イスラム教誕生以前のアラビア半島の情勢について、触れてみたいと思います。

なので普段は長ったらしく書きますが、今回はさっぱり風味です。

中東というと、最近では政情不安やテロなど、よくないニュースに触れる機会が多いですし、砂漠などの過酷な環境と厳しいイスラムの戒律のイメージが強くて、なじみが薄いですが、古代世界においてアラビア半島は、豊かな地域として知られていました。

特にアラビア半島南部にあるイエメンは、かのシバの女王(紀元前10世紀頃)が統治していたと言われるサバ国(旧約聖書では「シバ国」と記されています)があったとされ(対岸のエチオピアにあったという説もあり、現在も論争が続いています)、メソポタミア文明、エジプト文明と2つの文明と交流を持った古い歴史を持つ地域でした。

その繁栄は、シバの女王の時代から1千年以上過ぎた紀元後の世界でも変わりませんでした。

ローマ人たちはイエメンを、「幸福のアラビア」と呼んでいました。6世紀時点のアラビア半島の人口の半分は、イエメンに集中していたと言われています。

この地が栄えたのは、紅海とインド洋を結ぶ交通の要衝にあり、交易の中継地点だったからです。前に触れた東アフリカとローマの交易も、このイエメンを仲介してのものでした。

現在は砂漠が多い事で知られているイエメンですが、当時は繁栄を支えられるだけの農業生産力もあり、水源もありました。その秘密はマーリブ・ダムと呼ばれる巨大建造物の存在でした。た。

マーリブ・ダムは、高さ16メートル、長さ623メートル、基部の幅60メートル以上の大きさで、近代以前に作られたダムとしては世界最大の大きさでした。世界七不思議に入ってもおかしくない建造物だったと言えます。

残念ながら、このダムがいつ造られたのか分かっていません。一節には紀元前500年頃の建造といわれています。

ダムは、マーリブに住む3~5万人の飲料水と、それを養うだけの農業用水をまかなっていました。紀元前500年頃に造られたと仮定した場合、実に1千年にわたって、イエメンの繁栄を支えていたと言えます。

交易で栄えていたイエメンですが、6世紀になると、この地にも戦乱の空気が濃くなってきました。

北からは東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアが、そして紅海の対岸のエチオピアが、イエメンを窺う構えを見せていました。戦争はイエメンにとって、対岸の火事とはいえない情勢になってきていたのです。

しかし戦争は起きませんでした。その前に、異常気象がイエメンを襲ったからです。それは西暦530年代に入ってからのことでした。

イエメンを襲った状況は、状況は前に触れた東アフリカと同じで、豪雨と干ばつが交互に襲うものでした。

マーリブに残された碑文には、異常気象に際して、国中から労働者を募ったことが記されています。ダムが豪雨で決壊したのです。

この時の補修はかなり大がかりなものだったようです。なぜならダムの基幹部に、大きな石を使った補強がなされた跡が見られるからです。おそらくは再度の豪雨の時にも対応できるよう考慮したのでしょう。

しかし異常気象ははこの年だけでは終わらず、数年にわたって続きました。そのためダムは度々決壊し、その機能を停止しました。国中から労働者を募るのは毎年のことになりました。

そしてマーリブ・ダムの修復には、もう一つ問題が生じ始めました。豪雨と暴風は水だけでなく、内陸から多量の砂も運んできていました。ダムの底に、砂が堆積されはじめたのです。

考古学的な調査で、540年代の10年間に、マーリブ・ダムの底に蓄積された砂の量は約9メートルに達しただろうという試算が出されています。ダム全体に同程度の砂が蓄積されたと仮定すると、550年代にはダムの機能はほぼ喪失していたことがうかがえます。

しかし、530年代後半には大規模におこなわれていたダムの修復は、540年代になると規模が小さい修復になっていきます。そして550年代に小規模な補修の跡があるのを最後に、ダムの復旧はおこなわれなくなっています。

生命線ともいうべき、マーリブ・ダムの復旧はどうしておこなわれなくなっていったのか。碑文にはその理由が簡潔に記されています。

「ダムの修理は遅れに遅れた。それは病気によって労働力が失われたからだ」

そうです。ペストは東ローマ帝国やペルシアだけでなく、アラビア半島にも上陸していたのです。
イエメンへのペスト上陸は、東ローマ帝国で流行する1年前、540年と推定されています。

蔓延したペストによってイエメンの人口は激減し、次第にダム修復に集められる労働者の数は減少し、修復工事は遅延し、さらなる豪雨と砂の蓄積でダムは壊れ、機能は失われていったのでしょう。そして飲料水も農業用水も供給できなくなったマーリブ周辺は、農業が衰退して人口を養うことが出来なくなっていきました。

多くの人々がマーリブを去り、アラビア半島中部のオアシス都市マッカ(メッカ)、ヤスリブ(現在のメディナ)へと去っていきました。

570年代、マーリブ周辺の人口は5千~1万人程度まで減少していました。「幸福なアラビア」と呼ばれたイエメンは、すっかり寂れてしまっていたのです。

そして同時期、すでに機能が停止していた状態のマーリブ・ダムは、580年代に最後の大洪水で崩壊し、砂の中に埋もれていきました。そして最後まで残っていた人々もこの地を離れました。

こうして紀元前から栄えたイエメンの繁栄は終わりました。アラビア半島の経済の中心は、南部から、中部の都市へと移っていくことになります。

というわけで、次はイスラム教が誕生することになるアラビア半島中部の情勢について、みていきたいと思います。






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Last updated  2014.12.23 23:23:42
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